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永代和盛の囲碁人生 Ver.1(長崎編)

囲碁を覚えてから、長崎でどのように囲碁をやっていたかを簡単に紹介する。(小学1年生から小学5年生まで)

1983年 長崎県島原市生まれ

「最初の師匠」 小学1年生の夏休み

三歳上の兄と一緒に本格的に囲碁を始める。
父親に連れられて、近所のおじさんの家に毎日のように通い(お菓子につられて)、夏休みが終わるころには4級程度に。
小学1年の終わりごろには初段になった。
(父親は当時、三段程度)

近所のおじさん「自分の指導では手に負えないから、他の人に指導をしてもらいなさい」
最初の師匠であるおじさんがいきなりそう言った。
父親からすると目が点になるだろう。毎日のように通っても、嫌な顔を一つもせずに明るく教えてくれたおじさんだ。(これは子供心なりに覚えている)
すごく熱心にも指導してくれていた。
棋力も五段くらいあるので、まだまだ指導はできる。

それなのにだ。

当時は親子揃ってその意味など分かるよしもないが、院生になって本格的な碁を学び、おじさんの棋力を越した時には分かった。(それはまた後述する。)

とにかく言えることは、これはとても「好判断」だった。
今の自分がその状況を見ていたら、確かにそう勧める。

近所のおじさんは永代少年に才能があると感じてくれたのだろう。
しかし、そうだったとしたらなおさら、自分がその先も指導したいに決まっている。うまく成長してくれれば、自分の弟子だと自慢もできる。
指導冥利に尽きるではないか。

それでも、永代少年の未来を考えて、その先の指導を譲った。
これが本当の「あるべき指導者の姿」である。

これは「自分の囲碁インストラクターのあるべき姿」として、深く心に刻んでいて、今後も変わることはないであろう絶対的な芯となっている。

飽きっぽい自分が一年近くも囲碁を続けられたのである。
色々と楽しませる工夫をしてくれたのだろう。
囲碁の楽しさを教えてくれた「最初の師匠」である。

「二番目の師匠」 小学二年生

そうして、囲碁の才能があると認められた永代少年は次の師匠に出会う。
次の師匠はいつも配達中で仕事中でも、合間で家に寄って指導してくれるバイクのおじさんだった。

棋力は六段くらいで最初の師匠とはそう変わらないが、棋風が本格的だった。今になって考えると「成長に合わせてのバトンタッチ」は正解だと思う。

めきめきと棋力を上げていく永代少年かと思いきや・・・。

その後は学年一つごとに一段ペースの昇段で5年の冬頃に五段となる。
子供に限って言えば、成長が早いとはお世辞にも言えず、特に普通の囲碁少年である。

これは、二番目の師匠であるバイクのおじさんが悪いわけではない。
棋力が上がると勉強の内容も難しくなるし、何より学年が上がるにつれて行動範囲も広がってくる。友達との遊びが楽しいのだ。要するに熱意がかなり薄れてきていた。
平日の放課後はほとんど友達の家に行くか、外で遊びまわっていたものである。

それでも、週末の大会などに出るのは楽しかったので楽しみにしていた記憶はある。(小学3年~5年は小学生の部で長崎県代表になった)

都会で言えば、どこにでもいる普通の囲碁少年だった。(囲碁界で)
でも、長崎県の島原という田舎で言えば囲碁を打つ小学生など永代兄弟以外にほとんどいないというのが実情だった。当時はインターネットも普及していないし、ヒカルの碁などもまだ出ていなかったので、田舎で子供が囲碁を打つ状況にはなかった。そんな中で、田舎にしては珍しく輝いていたということだろう。

地元の色んな人が可愛がってくれた。
特に師匠である二人にはとても感謝している。

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