「じゃない人」の重要性:音楽グループ内ダイヴァーシティ醸成を考える

音楽グループ(バンドなりユニットなり)の楽曲を考えるとき、我々はメインコンポーザー(作曲家)に目が行きがちだ。クリエイティヴの泉ともいえる彼らは、強烈なカリスマ性をもって我々を魅了する。

しかし、彼らの多くが持ち合わせていないものがある。それは腕を競い合うグループ内のライヴァルクリエイターだ。世界の音楽界が忘れようとしている「強敵という名の親友」について考えてみたい。

なぜ一人の作曲家ではだめなのか

コピーは所詮コピーに過ぎない。たった一つのウィルスによって全滅する可能性は否定できないし、何よりコピーでは個性や多様性が生じないのだ。

人形使い - 攻殻機動隊(1995)

これは創作活動全般にも言えることだ。作曲や執筆は自分の一部を具現化する作業と言える。つまり上の引用におけるコピー行為だと言える。そこで自分の別の一面を切り取りヴァラエティを出すことはできるが、自分にはない個性、すなわち多様性(ダイヴァーシティ)は得られない

それでも誰かと一緒にグループを組むということは、誰かに自分でできないことを代替してもらうのではなく、一人では得られないものをメンバーと分かち合うためだと言える。そこでダイヴァーシティが生まれないのが残念だと思うのだ。そもそも自分のエゴを表出するならソロで十分なはずだ(桑田佳祐はソロでも大変な実績を残しているけれど)。

サブコンポーザーの歴史:イギリスの場合

バンド内で第2第3の作曲者がいるバンドの草分けと言えばThe Beatlesだろう。その音楽性だけでなく、それまでの(クリエイティヴ)リーダーとそれに従うメンバーという関係性が無いバンドというのは革新的だった。ジョン・レノンとポール・マッカートニーという二人の天才が出会ったことで、それぞれの才覚がさらに引き出されたのは間違いない。さらに、ジョージ・ハリスンもレノン=マッカートニーに書けないような曲を沢山生み出したし、最終的にはリンゴ・スターもペンを執った。

その路線での後継者はQUEENだ。フレディ・マーキュリーの美意識あふれるダイナミックな曲もさることながら、ギターオーケストレーションの緻密さも知られるブライアン・メイのヴァラエティ豊かな楽曲、コーラスもできるドラマー、ロジャー・テイラーの漢気溢れるロック、そして控えめなジョン・ディーコンの優しさにあふれるメロディー(一番有名なAnother one bites the dustは毒気に満ちているが)が調和している。ビートルズに比べると長期安定して活動していたが、それはデビュー時すでに各人が大学に通うインテリな大人だったから(フレディは25歳で、バンド業界では遅咲きと言える)だろうか。

時流に流されずポップなロックを探求していたイギリスのニューウェーブバンドXTCもベーシスト兼セカンドコンポーザーだったコリン・モールディングの脱退を機に活動を終えている。

サブコンポーザーの歴史:日本の場合

日本で言えばオフコースも小田和正と鈴木康博の2頭体制だった。はっぴいえんどは稀代の作詞家松本隆を軸に、細野晴臣・大瀧詠一・鈴木茂という才能がぶつかり合う歴史的存在だった。ムーンライダーズは各人のプレイヤー・コンポーザーとしての音楽スキルの高さを武器に、誰にもまねできないロック・ポップを生み出していった(その実験性ゆえに「名前は知っていても聞いたことのないバンド」筆頭なのだが…むしろ「MOTHER」の音楽や「クラッシュ万事休す」などの多岐にわたるソロワークの方が一般的には有名である)。

はっぴいえんどの細野晴臣が結成したYMOも、のちの世界的作曲家坂本龍一、名曲「RYDEEN」の生みの親高橋幸宏というクリエイティヴコアが分散していた。ファーストアルバムは細野のアイディアを坂本が固めるというスタイルだったが、次第にそれぞれの個性を生かした楽曲が生み出されるようになった。マニアならシンセの音色で誰が作ったかわかるレベルである。匿名性が高いと言われる電子音楽で、個性を極めていった様は興味深い。

JPOP史上最大のヴィジョナリー・小室哲哉率いるTM NETWORKにもサブコンポーザーとして木根尚登がいた(ちなみにヴォーカル宇都宮隆も2曲作曲している)。その曲を聴けば木根がなぜTM第3のメンバーなのかが分かる。小室の理系的な直線性とはまるで違うたおやかなバラードライターだからだ(我々は敬意をこめて「木根バラ」と呼ぶ)。木根の曲がシングルのA面になったのは1回きりだったが、プレイヤーとして以上の存在感を示す、ファンに愛される名曲を多数提供している。

そしてサブコンポーザーの歴史を語るうえで忘れてはならないのがUNICORNである。デビュー当時から奥田民生の音楽性は抜群だった。それでも謙虚な奥田はベースのEBI(実はソロデビューが一番早いのは彼)の楽曲を取り上げたり、ヴォーカルにフィーチャーしたりしていった結果、5人が自分で曲を作り、歌うというバンドの理想形が形作られていった(自分が思春期に彼らに出会ったので、UNICORNをバンドの理想像としている部分はある)。

LUNA SEAも、RYUICHI、INORAN、SUGIZOという個性あふれる面々を軸としてダイヴァーシティ豊かな楽曲を世に出している。ゆずも両方が曲を書けるので、ハーモニーとクリエいティヴィティを切磋琢磨しあう関係にある。

ダイヴァーシティを語るうえで面白いのがEvery Little Thingポルノグラフィティだ。当初クリエイティヴィティを全面的に受け持っていた五十嵐充が脱退した後、ELTは持田香織が楽曲を書いたり、伊藤一朗がインストゥルメンタルを手掛けることもあるが、ヒット曲の多くを外部委託している(アウトソーシングは海外ではよくある手法のようだ)。ポルノグラフィティはメンバーそれぞれが才能あるコンポーザーであるが、敢えて本間昭光という敏腕プロデューサーに楽曲を書いてもらうことで自らのアイデンティティを形成し、その間に自らの音楽性を深めていくという逆転の発想でユニットを成長させていった(それが意図的か歴史的経緯による偶然なのかは分からないが)。

何がダイヴァーシティを殺すのか

TK時代以降のカリスマプロデューサー頼みというのはアンチパターンだと思う。事実、小室哲哉は社会から求められるがままに自らの才能を消費していき、2000年代にはTM NETWORKやglobeという自らのユニットの活動に軸足を移し、日陰に隠れてしまった。

小室の轍を踏まじと後発のプロデューサーはクリエイティヴの一部を外注することで乗り切る人が多い。つんくは編曲をダンス☆マンなどに依頼することでマンネリズムを抑えているし、秋元康にはいろいろな作曲家・アレンジャーの選択肢がある。

それでも、少数がアイドルやグループのクリエイティヴィティを独占するのは良くないと思う。例えば星野源がPerfumeの曲を作ったら? 浅倉大介がきゃりーぱみゅぱみゅをプロデュースしたらどうなるのだろう、などと考えずにはいられない。中田ヤスタカは燃え尽きずによく頑張っていると思うが、彼の個性≒プロデュースアーティストの個性になっている現状は否めない。

また、カリスマ主義の遠因と言える、レコード会社のグループ内の看板づくりも問題である。確かに「誰誰が作った商品です」というのならクオリティはある程度予測がつくし、売り出しの方向性を決めやすい。でも、グループ内の大輪の花に隠れた小さな草に日差しを当てていくのもレコード会社の仕事なのだ。

ソロアーティストでもダイヴァーシティを得る方法

ソロアーティストはまさに自分の創作=個性なわけだから、本質的にダイヴァーシティには欠ける。それでも基本的に問題ないが、それでも多様性を手に入れたソロアーティストがいる。デヴィッド・ボウイだ。

彼のとった行動は実にシンプルだ。セルフプロデュースではなく、外部プロデューサーを雇ってコラボレーションする。それだけだ。トニー・ヴィスコンティ、ブライアン・イーノ、ナイル・ロジャースといった名プロデューサーと一緒に作品を作り上げていった。しかし、それにより彼のクリエイターとしての面が無くなることは無かった。

おそらく、デヴィッドは客観性を欲していたのだと思う。人間は自分のクリエイティヴィティを俯瞰することはできない。創作活動というのは自分の分身を作ることだからだ。作品が自己満足に終わってしまうことを彼は恐れていたのではないか。

日本のアーティストだと、西川貴教が思い浮かぶ。90年代後半からT. M. Revolutionとしてシーンを席巻していた彼は、スーパーグループabingdon boys schoolの活動をはさみ、2010年代半ばに本名で活動するようになる。ソロユニットであるTMRを名乗らないのは、TMRが浅倉大介や井上秋緒といったクリエイターの才能によって成り立つ独特の存在だったからだろう。事実、西川名義では色々なクリエイター、プロデューサーと組んでいる。

もしかしたら、ポルノグラフィティが本間昭光と袂を分かれたのも、Mr.Childrenが今年まで小林武史の元を離れていたのも、多様性を得るためなのかもしれない。

これからの音楽グループに必要なこと

間違いなく、ダイヴァーシティを得ることだ。ソロで音楽をやる敷居は年々低くなっていっている。グループになって音楽するならダイヴァーシティを醸成していく必要があるのではないか。

そして、レコード会社はサブコンポーザーの作品をもっと世に出していくべきだ。一枚岩ではないが、多面的な音楽を作れるようになっていくのは重要である。

いきものがかりの山下穂尊が脱退したというニュースは残念だった。彼も楽曲を多数手掛けており、いきものがかりの多様性が奪われてしまったわけだ(彼ら彼女らにおけるある種の音楽が絶滅したと言える)。いろいろな人が作曲できるクリエイティヴな音楽グループの登場を祈って、この記事の結びとする。

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