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赤い部屋と物憂げな人

もし間もなくこの世を去るとして、これまで答えがわからないままにして生きてきたことをひとつだけ教えてあげる、と言われたらなにをあげるだろう。

小学2年のときの同級生の中山くんが急に口を聞いてくれなくなった理由、中学の時、ちょっと悪かった友人から1ヶ月だけ預かっていたなんだか異様に重いテープでぐるぐる巻きにされたお菓子の缶の中身、突然バイト先の女の子に告白されて翌日に「あれは嘘」とメモで渡された真意、大阪のある川沿いの汚い倉庫で手足を結束バンドできつく結ばれて数時間転がされていた理由、別れた奥さんの再婚相手…

他にもいろいろあるのだけど、断トツで教えて欲しい幼い頃の記憶がある。

多分、2歳か3歳のころ、自分の一番古い記憶だと思う。
数日間、知らない部屋で知らない女性と過ごした。多分。

赤い部屋だった。
内装ではなくて窓の外から赤い光が差し込んでいた。
そういえば昼間の記憶はない。記憶に残っているのは湿った夜の記憶だ。

それほど広くはないけど、旅館のような生活感のない和室。
色あせたレースのカーテンだけがかかっていて、それもまた赤く染まっている。

自分は薄い布団にずっと寝ていて、左を向くと目の前に格子柄の布が貼ってある箱があった。何の箱だかわからないのだけど、すぐ目の前で生地の目までよく覚えている。

その箱が置いてあるところどころささくれだった畳のその向こうに、窓に物憂げによりかかるようにして外を眺めている、髪の長い女性がいた。

時折こっちの様子を眺めて、また外を見る。
いくつくらいだろう。

年齢はわからないけれど、自分の親たちとは違う世界で生きているような、どろんとした空気が彼女のまわりを覆っていた。

もっとも、このあたりは後々ずーっと思い返しているうちにイメージを膨らませているのだと思う。2歳の男の子が色っぽいとは思わないから。

ただ、どろんとした空気をまとっているのは印象に残っている。

ご飯を食べさせてくれた。
顔がすごく近くにあって、なんだか少し匂いのする息が顔にかかった。
時々長い髪が自分の顔に落ちてきて、神経質にかきあげていた。

なにかを小さな声で話しかけてくれた。言葉は覚えてはいないけれど、赤い口紅を塗られた唇の間から時折覗く歯は少し黄色くて前歯の一本は先が少し欠けている。

空気が湿っていた。
外は雨だったのかもしれない。なんだか憂鬱な気分になる湿った空気だった。そうだ、カビっぽい刺激臭も少し。

そんな記憶。

これが母親に聞いても父親に聞いても「そんなことはなかった」と、大真面目に言う。子供の頃から何百回と尋ねているはずで、小学校くらいからは明らかにうんざりした様子で聞き流されるようになった。

間違いなく記憶にあるのだけど、ディティールは思い返すたびに妄想で膨らんでいるのも間違いない。

愛人宅か女郎さんだかに預けられていたのでは、と思いこんでいたんだけど、成長するに連れだんだん自信はなくなった。

だけど、どろんとした空気と湿った匂いだけは強烈に記憶として残っていて、これはいったいなんなんだろうと思い続けてこの歳になった。

それだけの話。
だけど、まるで呪いのように数年に一度くらい思い出して、なんともつかない苛立ちに一人でのたうち回っていたりしている。

もし、死の間際にこの答えを教えてくれたなら、ほんのすこしだけ微笑んで人生を閉じることができそうな気がする。

赤い部屋ってなんなんだろう。



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