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2024/08/19 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い

こんにちは。ながたつです。

僕にはお守りのような、大切にしている時計があります。それが、Cartierのタンク。3年ほど前に中古で探して、買い、ベルト交換などを自分でしました。今では、ここぞという時につけています。僕にとってなくてはならない時計です。

身につけるのはもちろん、眺めているだけの時も。ただ眺めて、お酒を飲んだり、すべすべ触ったり。それだけ愛でたくなるのですが、未だに着けている時には緊張する時計でもあります。

なぜでしょうか。どうして緊張するのか。多くの人が憧れるジュエリーブランドだからか。高いからか。なんかオシャレだからか。今までこの理由を言葉にできませんでした。ただ、ふと、見えてきたような気がしたので、ここに書いてみようと思います。

愛用品に抱く緊張感の正体とは・・・

結論から言うと、タイトルにもなっている「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」がキーワード。Cartierを着けている自分の言動をキッカケに、Cartierが嫌われるようなことがあってはならないという緊張感。これが僕の抱いている気持ちの正体でした。

所持しているブランド品を自慢げに言う人がいますが、どうも好かない。偉いのはブランド自体であなたじゃないよ、と言いたくなる。たまにはちょっとチクチクすることも言っちゃお。いいもの買っただけで気が大きくなれる人が羨ましい。

つい、毒づいてしまいましたが、ブランド、その看板というのは積み上げてきた歴史のなかで、磨いてきた技術・品質・信頼を示します。立派な一枚看板は一朝一夕でできるものではありませんわね。しかし、その看板はスタッフの方だけが作ったものではない。

お客さんもブランド作りをしているのです

お客さん、愛用者の人たちもまた、その看板のイメージを作ってきたと思います。ブランドは品物だけでなく、それを誰が愛用してきたかも含めて、今のイメージを作っています。実際、好きな芸能人が使っているからじゃあ!と、自分も買うこともあるでしょう。

ある芸能人のファンで、その芸能人が好きなブランドを自分も買う。これは、その芸能人が好きだから買うわけです。その芸能人がいい印象を与えているからこうなる。そしてブランドもこれをキッカケに売上あがりますわね。

ですが、逆の現象もあるでしょう。身近に苦手な人がいる。その人が、愛用しているブランドがある。あるいはスタイルがある。すると、そのブランドには何の罪もないけど、それまで嫌いになる。切り分けて考えることができたらいいけど、そうはならん。

現実問題、その人自身を、その人を取り巻く環境を切り離して考えることはできないですよ。その人が好きなら、その人が好きなものも好きだし、その人が嫌いなら、その人が好きなものも嫌いになる。そう。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いんですよ。

するとね、自分のせいで、自分が好きなものへの評判が下がったらたまらんのです。責任も負えないし、単純に好きなものに傷がついたら嫌ですよね。でも、評判って簡単に下がるんですよね。あっけないほどに簡単に。だから気をつけ続けないといけない。

いいもの。長い歴史を含んでいて、皆が憧れる名品を持つということは、その看板に傷をつけることなく、次世代の人もまた憧れるブランドにできるようにする覚悟が必要です。それはブランドの人だけでなく、愛用するファンにも求められているものです。

また、スタッフの方よりも顧客の方が数は多いはず。そうなると、ブランドのイメージは顧客、愛用者によって決まると言っても過ぎることはないと思っています。大袈裟に話していますが、それくらいの注意があって過ぎることはないものです。

結局、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」のです

どのようなことも1つの物事だけを純粋に評価することはできないと思います。悲しいかな、いじわるな人は何故か言動に加えて、見た目まで馬鹿にされている場面を何回も見てきました。反対に気配りができる人への見た目への攻撃は私の人生にはない場面です。

このように、見た目と中身を切り離し、評価に大きな差があるという場面が経験上なかったので、どうしてもいろんなことが繋がって引っ張られて評価されるのだなあと思うのです。これをギュとまとめた言葉が、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」なのでしょう。

そのような現実に生きてる以上、自分の言動で、周りを巻き込みたくないのですよ。今回は時計から始まった話ですが、これが家族とか、友人とか、パートナーまで馬鹿にされたら、あまりにも悲しい。自分より自分の愛するものが褒められると嬉しいんです。

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