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怪獣映画を解読せよ!★『ガス人間第一号』認められない二人の社会の牢獄としてのホール

⚫︎怪獣映画を解読せよ!★『ガス人間第一号』認められない二人の社会の牢獄としてのホール

ガス人間第一号
1960年東宝(監督:本多猪四郎)

1、ガス人間第一号の物語

 大学に行けず憧れの航空自衛隊にも入隊できなかった図書館で働く青年、水野(土屋嘉男)が科学者に騙されて人体実験を受け、体が気体状になってしま う。

 人間にもガスにも自由に変身できるようになった水野は科学者を殺し、落ちぶれた日本舞踊の家元、藤千代(八千草薫)と出会う。

 ガス人間水野は彼女をも う一度、日本舞踊の世界に押し上げようと考える。そのための発表会を開くための資金作りに水野が取った方法は犯罪。  
 特異な体質を十分に利用しての銀行強盗 だった。しかし、札の番号から藤千代が銀行強盗の共犯容疑で岡本警備補(三橋達也)ら警視庁の捜査班に逮捕される。藤千代を釈放する様に水野は自らガス人 間であることや犯罪のテクニックを明し、発表会は絶対に行うと宣言する。

 ガス人間の正体という特ダネとりに躍起になる新聞社、ガス人間を面子にかけても逮捕したい警視庁、水野と藤千代を保護して研究をしたい科学者たち。例え不法であっても藤千代を世間に押し出そうとする水野。

 こうして、それぞれの利害がぶ つかり合いながら物語はガス人間水野と社会の対決と展開して行く。

 藤千代は元の直弟子たちから流派の再興を手伝うことを条件にガス人間水野と手を切ること を勧めるが藤千代は「わかっているの」と答え、申し出を断る。

 女性新聞記者の「愛しているんですか」という問いにも藤千代は「どうしようもないんです」と 答えるだけである。

 発表会当日、警察がチケットを買占め、ホールに爆発性のガスを充満させ藤千代を救いだした上でガス人間水野を爆殺しようと試みるが、配線が切断され て失敗する。

 藤千代と水野だけの発表会は終わり二人はがらんとしたホールでしっかり抱き合う。
「僕たちは絶対負けるものか」という水野の背中で藤千代は ライターを点火させ、ホールは爆発、紅蓮の炎に包まれる。

 黒こげになった背広を引きずりながらガス人間が這い出してやがてかつての人間だった水野の姿に帰る。

 消防車の放水にずぶ濡れになった水野の遺骸に花輪がバッサリと倒れかけ映画は終わる。

 花輪が覆いかぶさる幕切れは本多猪四郎監督があまりにも悲惨なので付け加えた演出であるがこれは少々疑問を感じる。

2、怪獣映画の「抵抗」と「滅亡」という構造

 香山滋の手によって滅びゆく少数派の「抵抗」の一つの象徴となって、1954年に映画館に姿を現した怪獣ゴジラが権力の象徴である国会議事堂をなぎ 倒した後も、その跡を継ぐ者は続々と現れた。

 阿蘇の麓から太古の眠りから覚め、九州の都会を襲ったラドン(『空の大怪獣ラドン』)。東北の北上川の上流の湖に潜んでいた大怪獣バラン(『大怪獣バラン』)ゴジラ、ラドン、バラン、この三大怪獣は、太古の世界から人類が近代文明による繁栄を謳歌する大都市に襲来して破壊しようと試みる。しかし、その目論見は人類の近代兵器によって阻止され、いずれもその一命を奪われることによって滅亡する。
 ゴジラやラドン、バランはなぜ暴れるのだろうか。その理由はおそらく映画を観る観客にも、映画を造った人びとでさえ答えを見つけることは出来なかっただろう。
 そのワケは当の怪獣たちの胸中にのみひっそりと隠されている。

 しかし、強大な暴力を持って都市を破壊するという能動的な行動から見て、なにかしらの動機を持っていてもおかしくはない。

 仮に怪獣襲来を戦争と捉えるなら、怪獣たちは、襲撃を受ける主体とは異なった民族であることは十分に考えられる。その怪獣たちの破壊には一定の意味がある。
 間違いなく、そこには自己の存在を誇示し、そして、太古の昔にはなかった街の風景を一切無に帰したいという欲望があるとも考えられる。
 怪獣たちが生存するには、あまりにも窮屈で馴染めない世界に対して、怪獣たちは「抵抗」しているのだ。

 つまり、怪獣たちは決して人間社会から承認を受けることはないのだ。

 そして、怪獣たちは排外され殺害されて「滅亡」する。

3、木村武の怪獣による「抵抗」と「革命」

 木村武(後に馬淵薫とペンネームを改名した)の脚本による東宝怪獣映画には常にその主題が根底にあった。『美女と液体人間』『地球防衛軍』『宇宙大戦争』『フランケンシュタイン対地底怪獣』『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』といった木村武(馬淵薫)の怪獣映画には「抵抗」と「滅亡」という展開があり、それが基本的な構造を成していた。

 しかし、少なくとも『モスラ』が登場して以降の東宝怪獣映画にも、他社の怪獣映画にも、こうした構造は非常に少なくなっていったのは確かだ。

 20世紀の二つの大戦争を経て、性懲りもなく21世紀という未来の開発へ向かう科学への過信と自信に支えられた人類の、エゴイスティックな生存権をめぐっての物語が続くことになる。

 ほとんどの作品が科学と人類の英知が勝利する。ゴジラたちの既存世界に対する「抵抗」と「滅 亡」のペシミスティックな視点はどこにも見つけられなくなるのだ。

 唯一、香山滋が撒いた種に花を咲かせたのが木村武だった。

 しかし、香山滋の自然科学的な変化によって、滅亡してゆく種族への視点とは違い、木村武の視点は現代社会的でポリティカルな底流を持っていた。

 脚本家になる以前は日本共産党に所属し「運動」を実践していた左派の作家だった。彼は官憲によって留置所という名の牢獄にぶち込まれた経験すら持っている人物である。

 マルクス主義に立脚した、政治運動を担っていた木村にとって、社会のなかで、のたうつプロレタリアの連帯による闘争は少なからず怪獣映画のなかにも見出すことができる。

 木村武の視線は人間の権力により弾圧される個に対して向けられ続けている。その対象こそ、怪獣たちである。
 しかし、その怪獣の「闘争」は決して「革命」へとはつながらず、権力によって、弾圧され、追いつめられて最後には敗北を喫するのだ。

 木村武の東宝SF怪獣映画路線で、その「抵抗」と「滅亡」の構造が顕著に表れたのは1960年の東宝作品『ガス人間第一号』(監督:本多猪四郎監督)だった。

 ここにはアレゴリーとしての怪獣という存在は必要としない。それは特異体質を持った人間の抵抗と滅亡なのである。

4、ホールという空間

 劇場には観客が客席を埋め、舞台のカーテンが下がるや万雷の拍手が贈られる。

 スポットライトを当てられた役者たちは高揚感と疲労感が入り混じった汗と笑顔で挨拶を観客に送る。

 ホールはこの役者と観客との間に共感という相互関係で一体となる。
 シェイクスピアの喜劇は結婚で終わり、悲劇は死で終わる。いずれの終幕であろうとも、最後にはホールという空間は演者と見物という両者によって、もう一つの大団円を与えるのである。

 そして、ホールという存在は変わらない。ホールを取り囲む世界も変わらない。いや、ホールという「入れ物」の機能は変わることがない。

 それが何らかの「抵抗」や「葛藤」を感じさせない有り触れたホールという名の空間の光景なのである。

 しかし、「抵抗」という名のホールがあるとすれば、そんな、ありふれた日常的光景は通用しないのである。

 黒澤明の『素晴らしき日曜日』の如く、それはお金もなく、未来もなく、やつれ、傲慢化した戦後社会に若い男女が二人が聴いた風音の「未完成交響曲」が流れた日比谷公会堂の様な場所なのかもしれない。

 ガス人間、水野を愛しているのかという問いに、返される藤千代の「わかっているの」「どうしようもないんです」という曖昧な答えには慎重な意味が隠されている。藤千代は水野を愛していたのかというとこの セリフからはそうとは思えない。

 学歴社会からこぼれ落ちて、大学へ行けず、憧れの航空自衛隊のパイロットにもなることもできず、図書館で事務員をしながら青春をすり減らしている水野。
 非常な舞踊の才能を持ちながら、権力闘争の末に落ち目になった日本舞踊の家元、藤千代。

 この二人が偶然に出会ってお互いに共感しあったことは道理であり不思議ではない。

 この二人が持つ欲求はただ一つである。それは自分たちを非情にも排外した人間社会への復帰であり、その社会の人びとによる承認である。

 藤千代と水野を結びつけているのは、人間的な恋愛感情ではなく、時代や社会の階級から転落したという立場の共感でしかない。これは悲劇的な結末を迎える愛情劇ではないのだ。

 警察の刑事や機動隊、新聞記者や野次馬、科学者たちが遠巻きに取り囲んだホールの中で時代と社会から転落した二人が閉じ込められてい る。

 「僕たちは絶対負けるものか」と言いながら藤千代を抱きしめる水野は「勝った」と思っていただろうか? 

 そうではなかっただろう。
 二人は社会の「普通」と思われている社会の システムに抵抗しながらも最初から滅びることを、あるいは敗北することをもちろん予期していたに違いないのだ。
 周囲をぐるりと包囲されたホールには出口はない。 ホールは時代と社会に拒絶された二人を隔離し、滅亡を促す空間でしかない。

 観客の万雷の拍手もない本来の機能を失ったホールは大きな社会システムの外側に存在する転落者の牢獄となった。

「ガス人間は死んだでしょうか?」という岡本警部補の問いに科学者の田宮博士(伊藤久哉) は「どうして爆発したのかもわからないんです」と答える。

 もちろん、爆発は藤千代が点火したライターの火が引き起こしたのだが、この爆発こそ社会から排外された二人が追い詰められた、転落者の牢獄での最後の抵抗なのだ。

 取り囲む人々にはそのことすら 理解できない。何が起こっているのか、二人が真の意味で、どういう立場にあるのかすらわからない。 

 人間は変わらず、社会というシステムが変化を遂げてゆくなかで、時代や社会に抵抗する者たちは、絶えず、藤千代や水野が閉じ込められた同じホールに押し込められるのだ。

 それは死をもって爆死するほどの力でな いと抗しきれない閉塞感と圧迫感に満ちている。 その中で何が起こっているかさえ遠巻きに見る普通の人々には理解できないくらいに。

 藤千代とガス人間は敗北したのだろうか? 少なくとも社会を少しでも震わせる抵抗を行ったことは事実だ。
 しかし、社会の承認を受けて「抵抗」を必要とはしない人びとにとっては、数日で二人の事件は忘却に帰するだろう。

 ホールのなかには何があったのか?
 それは現代社会のシステムが作った歪んだ牢獄のなかにのたうつ、ひと組の男女の「抵抗」であり、それは敗北に終わった。
 ひとりの観客の観劇も許さぬままに……

 拍手もカーテンコールも、演者と見物の共感の嵐も吹かぬままに、転落者の牢獄としてのホールは本来の機能を果たさず、二人の存在を消し去る焼却炉となるのだ。

 日本共産党を脱退し、脚本家に転身し、戦中戦後を 通じて保守的な映画会社であった東宝の文芸部でこの作品を書いた木村武の想いが「諦念」であったのか、あるいは「革命」であったのかは、この映画を観るそれぞれの人びとの立場でしか理解はできないのかもしれない。

 果たしてガス人間と藤千代の「抵抗」はあのホールの爆発をもって終わったのであろうか。

 現代社会になかで、水野や藤千代がどこにでもいることを、われわれは知っている。

 その水野と藤千代が追いつめられるホールをわれわれはただ、傍観するほかないのだろうか。

 『ガス人間第一号』はいまも解決をみない主題を残したまま、だれもいないホールに紅蓮の炎を映しているのである。


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