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ねばならないに苦しむきみへの手紙

愛するきみへ

なんだか、元気がないね?
ちょっと疲れてるんじゃないかい?
ちょっと、話しをしてみようかな?

そう、きみが苦しんでいる「ねばならない」の話さ。

「ねばならない」という言葉や状況にもいくつもの形があるんだよね。
例えばなにかをしなければなならない場合、二つの状況に大きく分かれると思うんだ。

ドイツ語の助動詞にsollen と wollenがある。なにかをするという状況の「意思」を示す時の助動詞なんだよ。
例えば「私たちは今日いかなければならない」とする場合、

Wir wollen heute gehen
Wir sollen heute gehen

となるんだけど、gehenという「行く」という動詞に対して、行かなければならないという状況の意味であるにしても、それがだれの意思によるかを決定しているのがこの二つの助動詞なんだだよ。

wollenは主体の意思
sollen は他者の意思

つまり、同じ行かなければならないにしても、行くことが自分の意識か他者の意思では随分と変わってくると思うんだ。

自分の意思なら「行きたい」となる。
しかし、他者の意思なら「行くしかない」ということになる。行かされてるってことだよね。

自分の意思でなにかを行うにしても、完全にそうでなければwollenにはならない。
そうなると、何となくしんどいものだよ。
何かするにもwollen(ヴォレン)かsollen(ゾレン)かは実は重要なことになってくるんだよね。

例えばきみの恋人が、きみにもうちょっと痩せてほしいねって言ったとしよう。
それに対して痩せたいからダイエットするというのはヴォレンか?

そうではないよね?

痩せてほしいのは彼氏の意思なんだからゾレンになってしまう。
その意思がきみの意思とぴったり同期しない限りはゾレンってことになるよね。
自分が彼のためにも痩せたいと思うから自分の意思でヴォレンだって思っていてもゾレンでそうさせられているってこともあるんだよ。

だれかの期待を背負わされて目標に向かわせられることは、どこかで心の負担になるんだよ。
そのために頑張って、自分がやりたいことだと思っても、実はさせられているのに気がついていない。

こういうパターンに陥ることは身も心も疲れ果ててしまうんだよ。

ヴォレンで動いていても、ゾレンにさせられてるんじゃないか?
そう思うなら、本当のヴォレンで「したくないからしない」ってことでもいいわけだよ。

ヴォレンの世界は自分のためだけになにかをすることが大切なんだよ。

日本の社会では多くの人が親の期待に応えるために進学をがんばったって経験があるでしょう?結果的にそれが良かったとしても、思い返せば社会へ出てから自分自身の勉強をしてみたいと思った時の喜びとか希望とかはちょっと違ってくると思う。

ぼく自身は幼年期から青年期にかけて家庭事情や経済の問題などからずっとゾレンで生きてきたんだけど、いまはヴォレンで生きているよ。
なぜならゾレンの虚しさを幾分か知ったからね。

だから、ぼく自身もぼくのヴォレンを他者にゾレンとして与えない。

だれの期待にも応える必要など本当はないんだよ。

きみはきみの人生をヴォレンで生きるのがよくて、他者は勝手にその人のヴォレンで生きればいいんだ。

つまりは自分のヴォレンは自分にだけ使って、他人には押し付けないこと、押し付けられる他人のヴォレンの期待には応えなくてもいいということなんだよね。

ちょっと、しんどいなあって思う状況があったら、自分の状況はヴォレンで動いているのか?いや、ゾレンじゃないのか?
ちょっと、そう考えてみることも大事なんじゃないかと思うんだ。

きっと、そうすりゃ、少しは楽な道が見つかるはずさ……

自分の期待にだけ応えるヴォレンの生き方。
それをわがままだなんて思わずに、どんどんやってゆくことが、結果的に自分も他者も幸福にできるんだと、ぼくは信じているよ。

だいじょうぶ、きみにもできるからね。

きみのヴォレンの世界を大切にしてね。

また、手紙を書くよ

愛するきみへ

🌷

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