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戦争映画の危うさ『青島要塞爆撃命令』

戦争映画の危うさ『青島要塞爆撃命令』

 1963年の公開というからもう60年も前の映画となる『青島要塞爆撃命令』。

 第一次世界大戦を描いた日本映画としては思い出されるのはこの映画と『バルトの楽園』くらいのものだろう。
 なぜこの映画の舞台は第一次世界大戦中の中国大陸であらねばならなかったのか。
 今回はその問題について少し考えてみたいと思う。
 
 日本海軍の航空機部隊が試験運用の時代、日本軍の青島攻略(青島、チンタオは中国におけるドイツの植民地だった)に偵察任務で航空機が投入されたという実話から膨らませて航空隊の爆撃による要塞爆破作戦を描く。

 ハリウッドで流行りのコマンド部隊による要地破壊を描いた戦争映画に触発されたものだろう。対戦相手がドイツで、コマンドによる要塞破壊ミッションといえば、誰もが思いつくのであろう作品はアリステア・マクリーン原作、グレゴリー・ペック主演の『ナバロンの要塞』だろう。タイトルからしても『青島要塞爆撃命令』は『ナバロンの要塞』を狙った作品であったに違いない。
 『ナバロンの要塞』は第二次世界大戦の戦勝国側のイギリス軍によるドイツとの戦いを描いた映画。そこには戦争に対するエゴイスティックな視点はいくつも見つかることになる。ドイツ人は全てナチズムの尖兵として認識され、殲滅あるいは虐殺されなければならない存在となる。
 ナチズムに対する加担が明白であってもなかっても、スクリーンに登場するドイツ人は有無も言わされずに主人公たちによって殺される運命にある。しかも、殺すという行為は殺される相手がナチ=ドイツ人ならば、とりも直さず免罪される。それは道義的な問題というよりも、映画の撮り手と観客によってである。
 このような映画を撮る以上は戦争に参加している主人公たちが「正義」の側にいなければならない。『ナバロンの要塞』における敵はナチスという絶対悪であり、それに対抗するものは絶対正義となる。しかも歴史はこの戦いに答えを出している。
 イギリスはナチスドイツを打ち倒した戦勝国であるということ。

 『青島要塞爆撃命令』の時代設定が第一次世界大戦であったことは、日本がこの戦争の戦勝国であったことと無関係ではない。
 敵はドイツであっても、これはヴィルヘルム皇帝のドイツ第二帝国であってナチス第三帝国ではない。しかし、このドイツは映画的にナチスの影を負わされている。つまりは、その頃の欧米の戦争アクション映画は常にナチスドイツと戦ってスクリーンで暴れていたのであるから、戦争映画で対独戦ともなれば、第一次世界大戦であろうと第二次世界大戦であろうと、そこは節操なく関係がない。
 つまりは、過剰な敵への戦争加害を道義的に許されるには、敗戦国としての反戦映画の枠から解放されなければならないからである。
 『青島要塞爆撃命令』のような作品が成立するためには、対中戦、対英米戦では難しいということになってくるからである。

 今この作品を観直すと実に問題があると言わざるを得ない。
 ここには敵と敵に加担する民族、つまり、ここではドイツ人と中国人に対してのエゴイスティックな視点がある。
 しかも、この『青島要塞爆撃命令』は、日本という戦争の歴史を持つ側にとって、英米が戦争アクション映画を制作するよりも危ない状態になりうることを示している。

 この映画は反戦映画ではなく、戦争を勇敢に描いたアクション映画に属するものだ。
 問題は抗日ゲリラ(この時代に抗日という言葉はまだ馴染みはなかっただろうと思うが)で、ドイツのスパイである中国人女性、白麗(浜美枝)が日本軍の警備隊に逮捕され処刑されることになるが、航空隊が銃殺刑を執行することになる。
 加山雄三、佐藤允、夏木陽介の航空隊が銃殺の為、銃を構えるが撃った瞬間、弾は石の仏像に命中し白麗は命を救われる。これは池部良が演じるヒューマニストの航空隊の隊長の計らいで、白麗を銃殺したことにして追放することにしたのだった。

 命を救われた白麗はドイツ側のフリをして自発的に航空隊の面々を助ける側に回る。
 最後にはドイツを裏切って日本側に付くのである。
 こうした中国人の動きは戦時中の防諜映画『間諜未だ死せず』における日本留学の経験を持つ国民党軍の兵士(原保美)が日本へスパイとして潜入して日本人の親切さを知って祖国を裏切るというあの構図と類似している。

『青島要塞爆撃命令』は日中戦争を舞台にしていないので、反戦映画なくとも中国人が日本人の味方をしても問題はないということか。

 青島攻略は結局のところ日本の中国権益を巡る侵略戦争の一環であったことは間違いないのだが(自衛戦争ではないことは明白)パリ不戦条約が未だなかった時代の物語なので、何でもありということになる。

 特に、抗日中国人女性の白麗の日本人に対する心理的動きの変化が、戦時中の戦時国策映画で、同じ東宝作品であった『上海陸戦隊』で原節子が演じた中国人女性や『支那の夜』で李香蘭が演じた中国人女性の心の動きと何一つ変わらない。
 こうした心理的変化の描写は戦争プロパガンダ映画では一種の常套句である。例えば『カサブランカ』におけるクロード・レインズが演じたフランス人警察署長のそれも同じだ。『カサブランカ』はアメリカがナチスに戦う理由を示した戦時国策映画である。
 それらの手法が、戦後の日本お戦争映画のなかで再び何食わぬ顔で試みられていることについて、おそらくは誰も気づくことがない。

 『青島要塞爆撃命令』は戦時国策戦争映画と大差がないところが非常に危険であると考えられる。今のところそういった批判は目にした事がない。

 岡本喜八監督の独立愚連隊シリーズも危うさを感じる人がいるかもしれなが、あれは味方の中に敵を見出し、敵の中に味方を見出すという構想は一貫していて、戦争に対するニヒリズムがあるだけある種の反戦映画と言える。

 『青島要塞爆撃命令』は東宝戦争映画の悪しきポイントが戦後も存続した一例なのである。

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