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反権力としての「これでいいのだ」

 赤塚不二夫の漫画『天才バカボン』をアニメ化した『天才バカボン』(1971年~ 1972年・全79話・よみうりテレビ、東京ムービー制作)の全編に溢れていた面白さとはバカボンのパパによる無意識の反権力だった。
 劇中、バカボンのパ パは徹底的に権威や権力を翻弄する。しかもそれは思想や信念があっての行動ではなく無意識である。その無意識の基底には「バカ」という設定が根付いてい る。

こうした無意識で権威や権力に抵抗してしまうキャラクターを他の日本映画作品に見出すなら、画家の山下清に取材した1958年の東宝映画『裸の大将』(監督:堀川弘通、主演:小林桂樹)位のものである。

『天才バカボン』も『裸の大将』も作品の中では主人公は「バカ」と呼ばれつつも、やがて観る者に主人公を取り巻く周囲こそ権威や権力に抗わない「バカ」ではないのかと思わせる妙な感覚を抱かせる。反権力の「バカ」の魅力である。
 『天才バカボン』でバカボンのパパによって翻弄される権威や権力とは人物ならブルジョワ、政治家、知識人、警察官、暴力団などであり、社会の制度や規律は常にその対象となる。

 特に警察と警察官は常にそのターゲットとなっている。本編では拳銃を乱射する交番の警察官「本官さん」は準レギュラーのキャラクターであり、常にバカボンのパパによって翻弄される人物である。
 『天才バカボン』の世界においてバカボンのパパが反権力的存在であることは、この本官さん自らが劇中ではっきりと言い表している。第9話『免許証なんか知ってたまるか』(脚本:大西洋三、監督;出崎哲) で街をパトロールする本官さんの次のセリフである。

「うーん、何という平和な日だろう。デモもないしバカボンもパパも見かけない」

 警察官である本官さんにとっての街の平和とはデモがないことと、バカボンやパパがいないということなのである。事件がないのではなく、デモがないことが平和であると言っているのである。

『天才バカボン』の作品世界では警察にとっては反権力としてのデモは対抗勢力であるらしい。そのデモとバカボンのパパはパラレルな存在としてここで規定されているのだ。

 デモもバカボンのパパも警察という権力に対抗するのだが、デモは意識的行動でりパパは無意識的行動なのである。そして、警察や警察官は治安維持のための公僕であるというよりも常に権威主義的であり高圧的な存在である。

 第 15話『パパの警官ゴクローサン』(脚本:七条門)は人命救助で川に飛び込んだ本官さんが脱ぎ捨てた警官の制服をバカボンのパパが拾って装着し、警官に なって騒動を起こすという物語だ。ここで警官になったバカボンのパパは街を歩きながら「逮捕するぞ」「お前は死刑だ」の言葉を連発するのだが、これを聞い た立ち小便の男や公園で隠れてキスをしているカップルを震え上がらせる。
 そのセリフに驚かない暴力団の男にはバカボンのパパは無言で拳銃を抜き、かまわず 発砲する。

 『天才バカボン』の作品世界では市民は警察と警察官に対して常に怯えている存在なのである。その警察や警察官に対してバカボンの パパは何ら怯えることもなく、無意識のままにあっさりその権威や権力を制してしまう。『天才バカボン』の無意識による反権力「バカ」の痛快さはここにあ る。

 79本作られたアニメ『天才バカボン』に警察が絡んでくる物語は数多くあるが、最も無意識による反権力的「バカ」の痛快さが発揮された作品は前述の『パパの警官ゴクローサン』の脚本を書いた七条門による第21話『ヤットコはこわいのだ』だろう。

 盗癖のある警察官、石川十五衛門の盗みぐせを矯正するためにバカボンのパパは一丁のヤットコを持ち出す。

 石川十五衛門が物を盗むたびにヤットコで顔をヒネリ上げるという制裁を加えて盗癖を治そうというパパのアイデアだ。
 石 川十五衛門の警察官としての権威も権力もバカボンのパパのヤットコの前に完全に無力化する。それに留まらず焼き芋が食べたくなったバカボンのパパは石川十 五衛門にヤットコで脅しながら盗みを強要するのである。ヤットコによって警察官の権威や権力が完全に制御されてしまうのだ。

 さらに警察署に逃げ戻った石川十五衛門を追ってバカボンのパパが乱入。それを制止しようとする警官たちを次々とヤットコでヒネリ上げ、バカボンのパパによって警察署は占拠されてしまう。
 占拠された警察署を警官隊が取り囲み、バカボンのパパに対して投降が呼びかけられる。
 しかし、パパはヤットコを手に言い放つ。

「これさえあれば全然怖くないのだ。バカボンのパパは何が何でもどうしても平和のために最後まで闘うのだ。」

警官石川十五衛門の盗癖を矯正するというバカボンのパパのヤットコは当初の目的から逸脱して、ついに世界平和を守るための道具となる。
 いや、実のところは逸脱などしていないのである。
 先に挙げた第9話『免許証なんか知ってたまるか』本官さんのセリフ 「うーん、何という平和な日だろう。デモもないしバカボンもパパも見かけない。」を思い返せば、警察に対抗することが平和のために闘うことであるという整合性がここでは取られていることが分かる。

 『天 才バカボン』の製作時期から察するにここにおける「デモ」とは68年闘争に象徴される反戦、反権力のデモであるに違いない。そのデモに抗う象徴的な存在が 警察であり警察官なのだ。つまり、『天才バカボン』の作品世界においては平和創造に対する抵抗勢力が警察と警官の権威と権力ということなのである。

 バカボンのパパの平和のための「バカ」ぶりは無意識の反権力行動なのであるが、こうなってくると単純に「バカ」とは呼べない筋が通ったものとなってくる。
 つまり、本官さんが述べた様に「バカ」と「デモ」は同義であり、ヤットコを手に警察署を占拠するバカボンのパパの「バカ」は当に「デモ」の反権力と何ら変わりがないのである。
 デモを制止しようとする権力とその尖兵である警察という存在が市民にとって怯えるべきものである世界自体が実は「バカ」なのではないかという冷笑がここにある。
 平和創造を阻害しようとする警察という存在がバカボンのパパの「バカ」に対して実は「バカ」なのではないかという冷笑である。これは同時に映画『裸の大将』 で見られた「バカ」と思われている山下清の言っていることが、我々の社会をめぐっては実は真面なのではないかという喜劇の中の悲劇ともぴたりと符合してい る。
 『天才バカボン』の面白さや可笑しさはバカボンのパパの「バカ」ぶりやギャグに集約されるものではない。それは表層であって、我々はバカボンのパパを通じて彼とは対極にある自らの「バカ」ぶりを無意識に笑っているのだ。
 我々にとって信頼のおける社会やルール、あるいは権威や権力に対して反権力の「バカ」を繰り返すバカボンのパパ。

その彼が「これでいいのだ」と完結させてくれる。

 「これでいいのだ」が我々に常に幾ばくかの安心や幸福を与えてくれるのはバカボンのパパの反権力としての「バカ」があるためだ。それは個人的な社会においての精神的な抗いにも作用している。
 「これでいいのだ」と真に言える平和な社会を創造するためには取り巻く社会に対して常に懐疑的であり「バカ」である必要がある。

 『天才バカボン』というアニメ作品は「デモ」と「バカ」をパラレルな存在に置き、我々にとっての社会とは一体何であるのかを問うものなのだ。
 すでに「デモ」という力が弱体化してしまった様に見える我々の世界でどこまで反権力の「バカ」を実行できるのであろうか。

「これでいいのだ」

 それが実現できるまで、『天才バカボン』は反権力としての「バカ」というヤットコを手に我々が更に失いつつある大切な物を訴え続けているかの様だ。


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