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そりの合わない親

仲良し母娘

うちは兄と母、私と父が似た性格でした。
兄と母は思ったことはすぐ口にする、そのせいか、父と私はだんまり、口数が少なかったです。
私はいつも怒り出すと止まらない母が「しばらくすれば沈静化する」と学んでからは一切無言になりました。
父もそのせいで無言だったのでしょう。

記憶に残っているのは寒い冬、布団の中にもぐって母の怒りを聞いていました。
なんでそんなに怒るんだろう。
理由は覚えていないけど些細な事だったんじゃないかな?
小学生が怒られるのなんてそんなもん。
30分以上たっても止まらず。
よく怒りが続くな・・・と他人事のように聞いていました。
もっと長い時間怒られる人もいるんだろうけど、うちは小一時間でしたかな・・・
多分母も翌日仕事があるので、そんなに長い時間怒っていると翌日の仕事に響くからある程度で終了。
その後は「ごめんねぇ~」とDV夫の豹変のように布団の中に入ってきて可愛がってくれてたような記憶。
その態度の豹変ぶりが不思議でしかなかった。

父も母がちょっとおかしいのはわかっていたみたい。

病気で長くないとわかってからは周りに「(母に)優しくしてやって欲しい」「家のことはできないから頼む」と言っていました。

「私はカレー一度も作ったことがない」が自慢の母でした。
多分つくり方わからなかったんじゃないかな。
母の手料理で一番覚えているのは天ぷらでした。
よその家庭と違うけど、うちは魚屋だったから店の残り物が普段の食事。
私は魚が苦手。
大丈夫なものもあるけど、ほとんどが苦手でした。
なので隣のお肉屋さんからよく肉を買ってきてました。
カレー、肉じゃが、酢豚、麻婆豆腐、バンサンスー、ハンバーグ等作っていたけど、母がたまの休みに作るのは天ぷら。
鍋をするときは「だし作ろうか?」と言ってはくれるけど・・・
だしなんてうちはだしの素と薄口しょうゆ混ぜるだけ。
作ってもらうほど手間じゃない。
それをそんな一大事みたいに言うなんて・・・
天ぷらするくらいしかできなかったのかな?と思います。
私からしたら天ぷらは面倒、油が飛ぶ~ですが、母はカレーや肉じゃがのつくり方が理解できないから「作らない」という選択肢になったんだろうな。

友達母娘
幻想でしかない

ばあちゃんが生きていたころは家事はばあちゃん。
ばあちゃんが居なくなってからは家のことは私がしていました。
母は「仕事が忙しい」と家事はほぼ放棄。
のちに家事ができなかったんだ、と人づてに聞かされて腑に落ちました。

夏場に何日も洗っていない仕事着のエプロンと靴下を洗うときのひどいにおい。懐かしい思い出ですが、当時はすごーく嫌な気持ちになっていたけど、このおかげで生活できているから感謝もしていました。
しかし、会社員の家庭であればこんなことはしなくていいんだろうな、と悲しくもありました。

兄からは「お前夏休みなのに他にすることないんか?」と言われていましたが、なら汚れた衣類誰が洗濯するの?と・・・でも言ったところで洗濯が終わることもないので、じっとりした目で睨み返すくらいしかできませんでした。

冬は寒い中外の二層式の洗濯機で洗ったものを一旦脱水。
そうすると洗う時間が短くなるので、冷たい水の中に手を突っ込んで洗濯物を取り出し、脱水したものをまた戻してすすぎ。
柔軟剤の香りをつけて脱水。
寒い外に洗濯物を干すまでの過程を何度繰り返したものか。
ドラム式を買っても「汚れが落ちないから二層式で洗って」とう母のオーダーにしばらく逆らえませんでしたが、廃業してからはドラム式での洗濯もやむなしと苦言を言わなくなりました。

早くに家を出たかった。

しかし、父を残していくのがつらかった。
一番の理解者だった。

今も洗濯物を干していると当時の記憶がよみがえる。

短大生のころの夕方、あぁ1日終わったんだな、と干した洗濯物を取り込んで夕飯の支度にとりかかる。

今日はちょっと昔のことを思い出しました。


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