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死にたいと思わなくなった日


わたしは
小学生の頃からずっと
死にたいと思ってきた。

その過程と
なぜいま死にたいと思わないのか
について書きたい。

※いじめや性被害、自傷等の記述があります。
体調の思わしくない方、フラッシュバックの可能性のある方はご注意ください。



小学校時代のいじめ

きっかけは
小3と小6で経験した壮絶ないじめ。
自己肯定感が削ぎ落とされて
自分なんか居ない方がいいと思っていた。

陰口を言われる。
いつもグループ分けではひとり残る。
もう覚えていないことのほうが多いけれど
あの状況で
よく1日も休まずに学校に行ったな、と思う。

休んでいれば、逃げていれば
自己肯定感がここまで
削ぎ落とされることもなかったかもしれない。
でも
当時のわたしは
逃げることのほうが怖かった。
親を失望させたくなかったし
小6のいじめは隠し通していたから
休みたいなんて言えなかった。

唯一の逃げ場は
小6の時、保健室で
毎日のように朝と帰り
保健室に行って
養護の先生とたくさんおしゃべりをした。
それだけがわたしの救いだった。

でも
常に死にたいと思っていた。
だけど死ぬ方法なんて
当時のわたしには分からなかったから
行動に移したことはなかった。


中学時代の性被害といじめ

中学は小学校の向かいにある。
だから
ほとんどの生徒が同じ中学に行く。

当然、いじめもそのまま引き継がれ
さらに陰湿なものになった。
授業中にちぎった消しゴムを投げられ続ける
靴に液体のりが入っている
あだ名をつけられて、授業中ですら教師に分からないようにからかいや悪口を言われる。
ひたすらに地獄だった。
どうすれば消えることができるだろう
ただそれだけを考えていた。
この時のわたしにも、休む選択肢はなかった。

そして
中2から中3にかけての性被害。
相手は小学校の同級生で、私立に行った子だった。

中2に上がる春休み
電話がかかってきて、会いたいと言われ
家にやってきた。
そしてわたしは自分の部屋で被害に遭った。
当時わたしたちは幼かったこともあり
無理矢理キスされたり、身体を触られたり
といった程度の被害だった。
でも、それだけでも十分嫌悪感と
自分が汚い存在に思えた。

でも同時に、学校でいじめられ
要らない存在として扱われていたわたしには
唯一、自分が必要とされる瞬間でもあり
それがいいことではないと分かっているのに
この関係を手放したら誰からも必要とされなくなってしまう、という怖さもあった。

時々かかってくる電話は
そのうち頻回になり
わたしが遊んでいる場所までやってくるようになったり
家で待たれることもあった。

そして中3にあがると
連日のようにやってくることもあり
わたしの精神は崩壊した。
家に帰るのが怖くなり
放課後、残れるギリギリまで
何をするわけでもなく学校にいるようになった。

それを見た担任が不審に思い
ある日声をかけてくれた。
「どうしたの?何かあるの?」と。

初めは言えなかった。
どうしても親には知られたくなかった。
親に知られるくらいなら死んだほうがマシだと思ったから。

でも
先生ふたりがかりで問い詰められて
ついにわたしは話した。

その後、親同士の話し合いの場が持たれて
それから相手は家に来ていない。

だけど
また来るのではないかという恐怖心は
中学卒業まで消えず
自分が汚れたという感覚と
死にたさはずっとわたしの中に残った。


高校時代の性被害と自傷のはじまり

高校に入り
やっともう安全なのだと思った。
と、同時に
張り詰めていた気持ちが溢れてしまい
わたしは初めて自傷をした。
ハサミの片刃で血が滲むまで手首を切り続けた。
赤く腫れてヒリヒリする傷。
それでやっと、自分は生きているのだと安心できた。

そして
高校2年に上がる春休み
生徒会の先輩に
仕事の打ち合わせをしたいと家に呼ばれた。
実際、仕事の打ち合わせはした。
でもそれが終わったあと、被害に遭った。

実は中学のときは
相手のすることに対して
「嫌だ」「やめて」と言い、抵抗もしていた。
でもそうすると
殴る、蹴る、首を絞めるなどの暴力を振るわれていた。

だから
高校の被害のとき、その場面がフラッシュバックし
身体が硬直し抵抗することも拒否することもできなかった。

帰り道、死にたさと消えたさと
自分に対する嫌悪感でいっぱいだった。

そこから
自傷が悪化していった。

自傷、といえば
わたしは高校1年の時、自暴自棄になり
部活の先輩と関係を持っていたことがある。
付き合ってもいない、所謂“セフレ”の関係。
自分が存在していてもいいと思いたかった。
でも
心が削られ、虚しくなっていくだけだった。


大学時代の性被害

いつからカッターを使った自傷を始めたのかは
はっきりとは覚えていない。
でも
大学の時にはすでにカッターで自傷をしていた。
家でだけでなく、大学のトイレで切ったことも
何度もある。
縫うほど深くはなかったけれど
流れる血が、穢れたものも一緒に流れ落としてくれる気がして、やめられなかった。
切っている時は痛みを感じず、あとからじわじわと痛くなってくることで生きている実感を得ていた。

死にたさは相変わらず常にあって
どうすれば死ねるだろう?
もっと深く切ったら死ねるかな
と考えていた。

そして
19歳の時、また被害に遭った。
相手は父親でもおかしくない年齢の男性。
イベントの打ち上げの帰り道
送ってくれた車の中で
キスをされ、身体を触られた。
死にたいと思った。
中学のフラッシュバックで拒否できない自分が心底嫌だった。

度重なる性被害で
自分の生きている価値や存在意義は
どんどん分からなくなっていった。


2016年の性被害

これは
ある劇団の会員を辞めた話。
で触れているのでここでは割愛するけれど
わたしの人生が終わった
自分の中の何かが崩れ落ちる音がする出来事だった。

死のうと思って計画まで立てた。
実行はしなかったけれど。


2019年初めて精神科を受診、その後初めてのOD

学生時代からバイトをしていたところで
そのまま働いていた。
そして
令和元年5月、社会保険に入ることができた。
初めての自分の保険。
これで
どこの病院に行っても母親に知られることはないと思い
6月、以前受診したことのある精神科を受診した。

薬が処方され、
はじめてわたしは精神科の薬を手に入れた。

そして8月
わたしは貯めていた精神科の薬を大量に飲み
救急搬送された。
これが初めてのオーバードーズ(OD)だった。
ODはその後も数えきれないほどしていて
いつ、というのは明細を引っ張り出さないと覚えていないけれど
胃洗浄や拘束もされてきた。
それでも、飲むことをやめられなかった。


皮膚科、形成外科との出会い

2019年9月
わたしは二の腕をいつもより深く切ってしまい
仕事のお昼休みに抜けさせてもらって
職場近くの皮膚科を受診した。
不安でいっぱいだった。
自傷の患者さんなんて診てもらえるのだろうか、と。
でも皮膚科の先生は
カーテンをスッと閉めてから
「わたしもちょっと違うけど、拒食症だったことがあるんだよ。
切ってもいいよ、わたしがその都度キレイに治してあげるから」
って言ってくれた。
その言葉に救われた。
それから定期的にお昼休みに抜けて受診するようになった。

傷がその過程でどんどん深くなり
二の腕から前腕に変わり
それでも先生は一度として嫌な顔をせず診てくれた。

2021年3月15日
今までで1番深く切ってしまい
皮膚科の先生に
きずときずあとのクリニック(形成外科)
の受診を勧められた。
それがきずクリとのはじめての出会い。

そして
7月24日からは皮膚科ときずクリ両方にかかるようになった。

そこからは
縫合、縫合、縫合の日々だった。
傷の深さや本数は悪化していくばかりだった。
ただひたすら死にたかった。

そして2022年1月28日
太い血管をわざと切り、ひどい貧血になった。
皮膚科では「顔が青白い」と心配され
きずクリでは採血をした。
でもおおごとになるなんて思っていなかった。

週が明けた31日、朝イチできずクリから電話があり
「ヘモグロビンが5.1しかない」と告げられた。
その日、お昼休みに婦人科に行く予定があり
そこでもう一度採血してもらい
午後イチで結果が出た。
結果は4.8。
輸血が必要と言われ、紹介状を書いてもらったけれど
電話をかけた全ての病院に断られてしまった。

その夜は頭痛がひどく眠ることがほとんどできなかった。

翌朝、断られた病院にもう一度電話をした。
すぐ来てくれれば診れる、と言われた。
タクシーで病院に行き
もう一度採血をして
ヘモグロビンは4.7。輸血を受けた。

その後も2回、輸血を受けるほどの自傷をしている。

そのことは
三度の輸血と、対処行動としての自傷について。
に詳しく書いてあるので
そちらを読んでいただければと思う。

そんなことがあっても
見捨てることなく治療を続けてくれた
皮膚科ときずクリには心から感謝している。


死にたいは消えず、金パブに手を出した

2023年4月15日
相変わらず死にたいは消えず
わたしはついに市販薬(パブロンゴールド)に手を出した。
メリットは
処方薬のように眠くならず
ふわふわ感で死にたさを誤魔化せるから、だった。

その頃には
強迫観念のように「死ななきゃいけない」
という感情がわくようにもなっていた。

金パブを飲み始め、手放すまでの経緯は
金パブを1ヶ月飲まなかった話
金パブ90錠飲んで救急搬送された話は
パブロンゴールド90錠飲んで救急搬送された話。
に詳しく書いてある。


死にたい、が消えた

そんなわたしだったけれど
2023年8月31日から
金パブを手放している。

金パブを手放せたのは
フラッシュバックが軽くなったからだけれど
気づけば
強迫観念もなくなり
死にたいと思うこともほとんどなくなった。

というより、考え方が変わった。

「死にたい」と思った時
「今じゃない」と思えるようになった。

人には死ぬタイミングがあるから
いくら死のうとしても
そのタイミングじゃなければ死ねないのだ
ということに気づいた。

あれほど死にたくてやっていた
リストカットもODも
いまはやっていない。

自己肯定感だけは今も低いままで
その影響で
「痩せている自分にしか価値がない」
という思考はまだ手放せず
拒食症は手放せていないけれど

それでも
死にたいと腕を切り、薬を大量に飲んでいた頃よりは
確実に生きやすくなった。

実は、わたしが
死ぬタイミングはいまじゃない
と思えるようになったのは
私の担当薬剤師さん。
で書いた薬剤師さんのおかげなのだ。
たくさん話す中で
そのことに気づかせてくれた。
改めて本当に大切な人だと思う。
他にもたくさんのことに気づかせてくれているし
誰よりもわたしのことを理解してくれていると思う。
依存にならない距離感で
これからも一緒に居たいと思う、大切な人。

たくさんのひとの支えのおかげで
頑なに決めていた死ぬ日も手放せたし
(「死ぬ日を決めて準備をした。そしてそれを辞めようと思った話。」参照)
死にたいと思うこともほとんどなくなった。


最後に

腕を切らず、ODもしない生活が
こんなに生きやすいなんて
思ってもみなかったし
フラッシュバックが軽くなるだけで
ものすごく楽になった。
そんな日が自分に来るなんて想像もしていなかった。

人は変われるし
ずっと同じところには留まっていないのだ。
絶対に変化していける。

いまは、そう思っている。

今日より、明日
明日より、明後日の自分が
より良い自分になっていたい。

焦らずゆっくりがんばりすぎず
少しずつ前に進んでいきたい。

皮膚科の先生、きずクリの先生方とスタッフさんたち
主治医、薬剤師さん、訪看さん
大切な友人たち
いつもありがとう。

これからもそばにいてね。


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