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三度の輸血と、対処行動としての自傷について。


2月1日
11月29日
12月20日

この1年の間に
三度の輸血を経験した。
すべて
自傷(リストカット)が原因の貧血で。

2月はヘモグロビン(Hb)4.7
11月はHb6.3
12月はHb7.3
で、数値的には2月が1番しんどかったはずだけど
12月16日になった貧血(※貧血になった日と輸血した日に若干のズレが毎回ある)が
人生初の“目の前真っ白になって倒れる”を経験して
3回の中で1番やばいと思った。
数値と体感的なものは、けっこう違う。

三度の輸血は全て同じ病院で

3回とも同じ病院が輸血してくれてて
何度行っても快く「輸血しましょうか」
って言ってくれる。
スタッフさんたちにも
一度も嫌な顔されたことも
嫌なこと言われたこともなくて
感謝しかないな、と思っている。

そして
1番最近の輸血は、貧血になった当日の夜間に受診した病院では一度断られたものだ。
だから、19日に精神科主治医に「輸血受けてきたほうがいい」って言われた時も、病院違っても断られるんじゃないかと思って
不安がとても大きかった。
だから
「輸血しましょう」って言われた時には
あまりにあっさりしていて拍子抜けしてしまった。
最初からここに来ればよかったと思った。

2月1日の輸血

でも、同時に輸血を受けることへの複雑さもある。

わたしなんかが輸血を受けてもいいのか

まずひとつ目は
人の血液をもらうことへの申し訳なさ。

本来輸血は
事故などの本人が予期せぬ中で起きた命に関わる事態や
病気などの本人がなりたくてなったわけではない状況や
手術などのそれを行うために必要がある場合に
使用するのが一般的。
献血をする方々もそれらを想定しているはず。

でも自傷は
本人が自らそれを選んで行った行為。

もちろん
わたしにとっては複雑性PTSDの対処行動のひとつで
好きで選び取ったものではないけれど
世間一般からすれば
自業自得なことでなぜ人の血液をもらうのか
と思われても仕方ないと思っている。
同時に
人の好意を、こんな形で、わたしがもらっていいのか
と思ったりもする。

だから、輸血はとても迷う。
自分のことを1ミリも大切に思えない時は余計に。
そんな葛藤がありながら
これまで輸血を受けてきた。

対処行動の延長にある貧血

もうひとつは
このブログのタイトルにもした「対処行動」が関わってくる。

輸血を受けることで身体的しんどさは消えても
逆に心の苦しさが増す、ということ。
これは
自傷がPTSDの対処行動であるのに対して
貧血のしんどさは、その対処行動の延長になっている、ということ。
貧血のしんどさがある間は
過食嘔吐や過量服薬が起こりにくい、と言えば
少し分かりやすくなるだろうか。

つまり
輸血をして貧血が楽になる、ということは
苦しさを紛らすものがなくなって
他の対処行動(過食嘔吐の場合が多い)によって
苦しさを紛らすようになる、ということだ。
それがまた新たな苦しさをうみ出すことにもなるから
輸血を受けて貧血のしんどさが楽になることには
かなり複雑な気持ちがある。

リストカットはわたしにとって
長く付き合ってきた対処行動だ。
10年以上になる。
良くなったり悪くなったりを繰り返して
いまはあまり良い状態とは言えない。
リストカットは
切るところから縫ってもらうところまでが
対処行動だとわたしは思っている。
麻酔の痛みも、縫ってもらうという行為も
感覚的なものも視覚的なものも
わたしにとっては心が楽になる対処行動。

そして
貧血になることも
その原因の止まらない出血…溢れ、流れる血を見ることも
顔から血の気が引く感覚や
目の前が真っ白になること
動悸や息切れ、頭痛や吐き気も
全てが、苦しさを紛らしてくれる。

危ないことも、危なかったことも
まわりの心配も
分かっているけど、でもこれがわたしの対処行動のひとつ。
だから、輸血したくない、とか
輸血しなきゃよかった、とか思ったこともある。
人の血をもらっておいて言うことではないのかもしれないけれど
でもそれがわたしの正直な気持ち。

11月29日の輸血

まとめ

これまでを振り返って
輸血を受けてよかった、とは思っている。
でも同時に
貧血のしんどさと
過食嘔吐のしんどさと
どっちのほうが苦しいかと聞かれれば
それは間違いなく過食嘔吐なわけで
本当に輸血受けたのが正解か、分からなくなる。

そもそも対処行動なんて必要なければいいのだ。
複雑性PTSDという病名も
わたしが好きで選び取ったものではない。
輸血を受けるたびに
救急で縫合を受けるたびに言われる
「なるべく切らないようにしましょうね」は
できるんだったらそうしたいよと思う。
そう言い返したいと思いながら
治療さえ受けられればそれでいいんだと
自分に言い聞かせて飲み込んできた。

自傷に対してたくさんの偏見がある。
アピール目的、かまってほしい、などなど。
でも
アピール目的でわたしはこんな輸血が必要な自傷はしない。したくない。
切らなくていい人生を選びたかったし
複雑性PTSDなんて病名も欲しくなかった。

自傷で輸血を受けるたびに
偏見が怖かった。
誰かに「自業自得のくせに」って
言われるのではないかと不安だった。

だから書いた。
この先、輸血を受けるかもしれない誰かが
そんな不安を抱かなくてもいい社会にするために
わたしの言葉が1ミリでも役に立ったらいいなと思ったから。

12月20日の輸血



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