連続対談「私的占領、絵画の論理」について。その24 「誰かに《見つけてもらう》必要がない絵画」

前回からの続き。連続対談「私的占領、絵画の論理」第四回

「環境と意識と絵画」 ─ 戸塚伸也 ─

は、明後日の土曜日、31日です。今まで「私的占領、絵画の論理」は、ゲストの方を招く前に“予習”として、ブログを事前に公開してきました。おおよそ3回をゲストの方の作品について書き、3回を、その時々に必要な企画全体に関わる記事にしています。ところが今回、戸塚さんについては5回連続で作品についての記事になりました。それだけ書く分量を要請する作品の複雑さがあるからなのですが、では今までの三名の方はそうではなかったのか?といえば、そんなことはありません。

シンプルな言い方をすれば、戸塚伸也という画家を適切に語り、作品をまなざすために踏まえなければいけない前提が、通常より多いのです。戸塚作品については、初回に書いたようにまず画面で強い印象をもたらすマンガ的キャラクターや症候性について、それを「キャラ絵」などから切り離し、基礎的な絵画構造があることを確認せねばならず、同時に次の記事で書いた「異文化性」「異質性」が、しかし「読むに値する」ことも示さねばなりません。つまり、三記事目で強調したように、絵画における近代性とその乗り越えの必要を確認したうえで、戸塚さんがシリアスな分析に値する現代美術家であることを踏まえなければなりません。

そうしてようやく、戸塚さんの作品の個別性に踏み込む四記事目五記事目に突入できるのです。実際問題として、戸塚伸也という画家は特異ではあるのですが、その特異性を掴むためには、これだけのステップを必要とする。こういった“予習”が、今までの、原則として近代美術あるいは戦後アメリカ美術のフォーマルな展開に、オーソドックスな形で連結していることがわかる画家の皆さんよりも長くなってしまったわけです。逆を言えば、この程度に事前に“予習”をしないで戸塚作品を語ってしまうと、非常に危険なことになりやすいと思います。画面の特徴的な「面白さ」を拾って、一般に共有されやすい「面白さのコード」を面白がって終わってしまう。

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戸塚さんについての二番目の記事で触れたとおり、自分の属している文化圏、もう少し砕けた言い方では「自分の感じる面白さ」で「面白い」と思える作品が「読むに値するか」は、簡単にはわかりません。明らかに美的コードが違っているにもかかわらずそこに「読むに値する」ものがある美術を、最低限鑑賞し学んだ経験がないと、「自分が面白い」もので「仲間(共同体)も面白い」と言っている作品を「優れている」と直感してしまうのが人間というものです。《明らかに美的コードが違っているにもかかわらずそこに「読むに値する」ものがある美術》の例としては既に例に挙げたロシア正教のイコン、キリスト教中世美術のほかに殷の青銅器とか

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ヒンズーの美術など

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が代表的でしょうか。これも繰り返しますが、我々にインストールされている西洋由来の近代美術は、それこそこのような異質なコードをふんだんに取り入れ、自己批評-自己展開しています。ピカソとアフリカ美術の例は有名ですけれども、例えば日本でもファンの多いエッシャー(彼を「近代美術」と位置付けるには、先行するメスキータを踏まえるなど幾つかの階梯も必要ですが)が、イスラム美術、アルハンブラ宮殿の経験から、あの特徴的な版画群を生み出したことも思い出していいでしょう。

僕が戸塚さんの作品をまず「キャラ絵」から切り離したのは、要するにそこで扱われているコードの差(モニター的色彩の排除など)を元にしていますが、今、日本の「キャラ絵」を「現代美術」のテーブルに載せようとする動きに一抹の危険を覚えている、という事情もあります。日本のキャラクター文化はアメリカ文化の影響下から進化し、独自の力を持っていますが、これを「現代美術」に接合する、つまり近代(美術)批判=近代と「異質」なコードによる既存コードの革新とするには、適切に「日本のキャラクター文化」の「異質性」の理解を、自己の中にもっていなければいけません。

自分自身が日本のキャラクター文化に内在してしまっていて、かつそこに問題意識を持っていなければ、これは無理な相談になってしまいます。とにもかくにも村上隆氏が「日本のキャラクター文化」の「異質性」を利用して現代美術たりえていることは、彼がこの「日本のキャラクター文化」に内在せず「異質性」を自覚しているからです(従って日本のマンガやアニメーションを愛好する共同体が彼を排斥するのは理論的に正しく、かつ、村上氏が自分は日本国内の文化共同体に受け入れられていない、と主張するのは事実以上に現代美術的戦略として、これも正しい)。

自分自身が日本のキャラクター文化に内在してしまっていることを自覚していて、かつそのままで「現代美術」に参画するには、もう一つ非常に悪い「手」があります。欧米の白人男性中心主義的な「現代美術マーケット」に、かつてのアフリカ文化やイスラム文化のような「異質な他者」として見つけてもらい、「認知してもらう」「取り入れてもらう」という作戦です。いうまでもありませんが、これは「植民地で優位な奴隷」になろうとする態度です。かつ、この作戦は「日本文化」に(経済力に基づいた)影響力が必要ですが、この影響力はまったく風前のともし火でしょう。

これ以上この話は追及しませんが、戸塚伸也という画家が現代美術家足り得ている根拠として、戸塚作品の「異質性」は、ほぼ日本の共同体から無関係な彼の単独性に基づいていて、かつ、それを誰かに見つけてもらう必要はなく、それ自体の体系によって作品として既に成立していることは、強調しておきたいと思います。

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戸塚伸也は世界を冷静すぎるほど冷静に見ており、かつ、そこから決定的にズレ、「錯誤」している断層そのものとして絵画を組み立てている。戸塚さんの作品を検討するとき、この作家の孤高の誇りを、まず認識するところから、話を始めましょう。


では、10月31日、両国のART TRACE GALLERYでお会いしたいと思います。前に書きましたが、戸塚さんはいくつか作品を持ってきてくれます。ぜひご予約ください。

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