連続対談「私的占領、絵画の論理」について。その20 「すぐに“わかる”アートは「読むに値」しますか?(それこそが「わからない」はず)」

前回からの続き。31日に開催予定の連続対談「私的占領、絵画の論理」

第四回「環境と意識と絵画」 ─ 戸塚伸也 ─

にお呼びする戸塚伸也さんの絵画について考えていきたいと思います。正直にいいますと、僕は最初から戸塚さんの絵にピンときていたわけではありません。僕が最初に見たのは戸塚さんが作られたマンガ冊子のようなzineだったんですが、その時は脳内に「?」しか湧きませんでした。どういったらいいんでしょうね。マンガですから、コマ割りがありキャラがいて何かを物語っている。そのストーリー自体は追えるのですが、そういったコマの中に書かれた/描かれた絵や文意が、まったく理解できませんでした。

画像3

これに近い経験としては、初めて外国語に触れた時が挙げられます。中学校に入って、初めて英語の教科書を見たとき、そこには文字があり、単語があり、文章があります。たとえ英語をまったく知らなくても、それが「言語」であることは、およそ理解できるでしょう。アルファベットはかなや漢字と同じ文字で、それが固まりになって単語=ことばになって、さらにそれが連なって文章だ。しかし、意味はまったくつかめない。

けしてそれが戸塚さんの絵と似ているわけではないことを承知した上で、戸塚さんの絵が「わからない」と思う方に、一つのきっかけとして中世の写本を挙げてみたいと思います。以下は東北芸術工科大学の紀要に掲載されたモーガン図書館のベアトゥス写本挿絵についての安發和彰さんの論考から採取したベアトゥス写本の画像です(この論考自体も大変面白いので、ぜひPDFを読んでみてください)

モーガン写本

ここに書かれて/描かれているのは、聖書のヨハネ黙示録の注釈書のテキストと挿絵です。安發和彰さんによれば、聖書に書かれた黙示録の『天上のエルサレム』、世界の終末と最後の審判後の天国への注釈が表現されている。ここにはあるストーリーとビジョンがあって、それが、いわば中世キリスト教世界のルール(論理)に従って配置されています。事前の知識がなければ、この写本を「わかる」ことは難しいでしょう。

それは美的な水準でも同じはずです。美術の歴史に触れたことがあり、ロマネスクからゴシックまでのキリスト教美術を一定数見た経験があれば感覚的に美しい(意味はわからなくても)と思えるかもしれませんが、そうでないひとには「?」なはずです。明治期のロシア正教のイコンを描いた山下りんは、イコン技法を学びその「文法」を理解したのちも、ラファエロのようなルネサンス絵画へのあこがれを捨てられずにイコンを「お化け絵」と言っていました。

これ以上中世絵画に立ち入るのはやめておきますが、要するに、こういった異文化の表象とロジックに触れる経験の「手ごたえ」「手触り」と、戸塚さんの作品に初めて接したときの感覚に接点があることは、了解できるのではないでしょうか。戸塚さんのwebサイトに書かれたステートメントを読めば、もうひとつヒントを得ることができます。全文を引用しましょう。

Statement
単純にふたつのものが重なっているだけで、
ふたつの間には物語が生まれます。
 
例えばトイレットペーパーの上にりんごが
乗ると、個々に見ることとは違う予感が
得られます。
 
ランダムにおかれたものたちでも、
人が見た瞬間そこにストーリーを
作り上げています。
 
一定時間、見たり聞いたり感じた情報
の後、そういった時間が存在することに
意味があったかどうかを考えることが
よくありますが、
 
僕はその情報を自分の思想、美意識に従って
並べ替えようとしているようです。
 
対象物を自分だけが違う認識をする文字の
ように捉えて、意味のある物語を伝えること
が、僕のやるべきことだと思っています。

戸塚さんは、何も自分の論理を隠していません。わけのわからない一見「変」な絵を描いて人目を引いて謎めかせるような態度からは最も遠いところにいます。端的に、戸塚さんは、自分が知覚し感覚した世界や、自分の中に生まれた言葉やイメージや意識を組み合わせ、作品を構築する。画面に複数の事物を配置することでそこに「黙示録」を生もうとしている。最後のセンテンス「対象物を自分だけが違う認識をする文字のように捉えて、意味のある物語を伝えることが、僕のやるべきことだと思っています。」は、そのまま受け取っていいのです。

とつか05

まるで中世の僧房の画僧のように、戸塚さんは、自身のシンタックス(文法)によって、我々にメッセージを伝えようとしています。そう、戸塚伸也さんの絵画はあるところまで単に眺めるだけではなく「読む」必要があります。誰かの言葉を借りてしまえば「そこに読むに値する作品があることがわかりさえすれば、実際に読む必要はない」。ベアトゥス写本が、たとえ意味を具体的に追えなくても、それが明らかに「読むに値する」ことがわかりさえすれば、我々は急にそれが感覚的にも美しいものであることが了解できるようになります。

戸塚さんの作品を「今・すぐ・ここで」わかる必要はないのです。むしろ、現在の美術は、現代の我々が日常的に使っているアイコン(イコン)の多用によって、あっというまに「わかって」しまう(例えば一目でそれが「キャラ絵」だとわかる作品の一部のように)。従って、それが真に「読むに値する」かどうかの判断がされにくい──感覚的に「すぐわかる」作品が「読むに値する」とは限らないはずなのに。戸塚さんの作品を見る経験は、そのような批評性すら生み出すと僕は思います。(続く)

※「私的占領、絵画の論理」は要予約です。関心ある方はこちらへ。

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