連続対談「私的占領、絵画の論理」について。その22 「環境と意識の間に生まれる絵画」

前回からの続き。連続対談「私的占領、絵画の論理」第四回

「環境と意識と絵画」 ─ 戸塚伸也 ─

はとうとう、今週末土曜日の31日に迫ってきました。戸塚さんの作品も数点、実際に見ることができます。そして戸塚さん本人からお話が聞ける、貴重な機会です。ぜひご来場ください。今まで同様、席数を絞ってコロナウイルス対策をした上でお待ちしています。

さてここまでで、僕は戸塚さんの作品に近代的な空間が現れるときがあることを示しました。そしてそれがどちらも2013年に制作されていた事からこの絵の構造が意図的であるとしたのですが、実は2017年にも、かなり今までの戸塚さんの作品と異なった内容の絵が描かれます。まず1作目『トデハタラク』1092×1325mmというサイズ表記です。また額装されていることも注目しましょう。

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タイトルは「都で働く」でしょうか? もう一例。『まわりしかない』。サイズは1580×1225mmとクレジット。

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さらにもう一例。タイトルは『懐かしいアメリカ』サイズは228×318mm。小さめですね。

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さて、『トデハタラク』『まわりしかない』に特徴的なのは俯瞰的な視点です。そこに交通網、道路と自動車が主要な題材として描かれている。俯瞰的、というのはおおよそ客観的、と言い換えられるでしょう。また、『懐かしいアメリカ』にはその通り、アメリカ国旗やコカ・コーラのロゴが見えます。ここでは絵画空間はむしろコラージュ的になっていて、様々なアメリカを表象するアイコンが並列的に描かれている。

前回までも見たとおり、戸塚さんは必要に応じて近代的な空間構造も選択しますが、このとき描かれたのは、おそらく「社会」です。あるいは「政治」です。少し前から戸塚さんの作品をみてきた僕は、最初うまく把握できなかった戸塚さんの作品が、戸塚さん個人のロジックによって描かれてきたと理解していましたので、ここで急に「社会」「政治」のようなマクロな視点を含んだ、大きな射程距離がでてきたことに、率直に驚きました。

ただ、冷静に振り返れば、戸塚さんの作品にはそういった要素は過去にもあったように見えます。戸塚さんのサイトを見てみれば2009年には『誘惑するビル』(F25)といった作品がありますし、

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2007年には『藤沢駅』(F10)があります。

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しかし、いずれの作品も、個人的な立場あるいは視点から描かれたように見えます。そう、ここまでの戸塚さんの作品は、例え空間の作りが近代性をもとうがもつまいが、原則的に私的な視座と空間に根をもっていたように見えるのです。しかし、『トデハタラク』あるいは『懐かしいアメリカ』には、もっとマクロなモチーフが見てとれます。戸塚さんのパーソナルな世界観に関心をもっていた僕としては、初めて戸塚作品に触れたときとは逆の意味で「?」が頭を駆け巡りました。

ここでも戸塚さんの言葉をヒントにしましょう。無論、作家のことばというのは扱うのが難しいし、基本的にそのまま受け取るのは危険でもあるのですが、僕は戸塚さんの言葉というのは、作家のものとしても相当に率直な部類に入ると思います

2017 個展 「まわりしかない」ステートメント
人が他者を認識するとはどういうことなのか。この認識するという行動によって「そのもの」との誤差があるものが自分の見るものである。
その誤差を視覚化し、何時の間にか生まれてしまったフィルターを確認したい。

『トデハタラク』を見るとき、この言葉はひとまず、そのまま受け入れていいように思います。とくに注意すべきは「認識するという行動によって「そのもの」との誤差があるものが自分の見るものである。」という発言です。単純化を恐れずに言い直すなら、戸塚さんは、「自分」の作品が、「そのもの」=自分の周りにある、自分以外の対象(他者)を認識するときに生じる「誤差」からうまれているといっている。戸塚さんにとって「他者」とは、植物や建物や道路や車もふくんでいると思われますが、大ざっぱにいって戸塚さんは世界を、周囲の対象(環境)と自己の認識の誤差(ズレ)によって把握しているのだと思われます。

『トデハタラク』で言えば、客観的な俯瞰視点の都市に、奇妙な魚や虫やケーキあるいはチーズのようなものが、やや太い輪郭で描かれています。また、画面手前には四角い窓があり、高い位置にある部屋からこの都市が見下ろされているように見えます。さらに、その部屋の中から黄色い線が都市に伸び、景色をなぞっている。いわば俯瞰的なランドスケープから剥離したイメージがオーバーレイしている。このオーバーレイが「錯誤」、ズレになっている。

戸塚さんの絵の特異性はここにあるのではないでしょうか。一般に、人が絵を描くとき、そこにはひとつの、秩序ある=調和のとれた空間を作ろうとするものです。しかし戸塚さんの絵が観客のこころをざわつかせ、ある意味で不安にするのは、そこに「誤差」が、世界とのズレが描かれているように見えるからです。僕が先に書いた、戸塚さんの絵の個別性、差異を見なければいけないというポイントは、まずここに置けるように思います。

しかし、人は対象そのものではなく、対象と自己の認識の「ズレ」を、どうやって描けるのでしょうか?『トデハタラク』ではレイヤー構造が使われたとして、しかし戸塚作品の中ではこれらはやはり少数例です。他の作品で「誤差を視覚化」するという手法は、技術的にどう処理されているのでしょうか(続く)。

※「私的占領、絵画の論理」は要予約です。関心ある方はこちらへ。

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