連続対談「私的占領、絵画の論理」について。その21 「戸塚伸也はいかに現代美術家であるか(そしていかに宇宙人的であるか)」

前回からの続き。31日に開催予定の連続対談「私的占領、絵画の論理」第四回

「環境と意識と絵画」 ─ 戸塚伸也 ─

にお呼びする、画家の戸塚伸也さんについて、僕は前回

異文化の表象とロジックに触れる経験の「手ごたえ」「手触り」と、戸塚さんの作品に初めて接したときの感覚に接点がある

と書きました。ここで「あれ?」と思われた方、あなたはこの「一人組立」のブログをちゃんと読んでくださっています。ありがとうございます。前々回、僕は同じ戸塚さんの絵について

近代絵画としての土台の上に、戸塚伸也という画家の論理にのっとって色彩とマチエールが建築されている。

と書いている。この二つの文章は矛盾しないでしょうか?「近代絵画」とは、その語の定義上、世界のどこに行ってもユニバーサルな視覚制度です。それを踏まえている戸塚さんが「異文化」であることはあり得ない。

まず簡単に「近代絵画」の「近代」を確認しましょう。狭義の近代は18世紀ヨーロッパで産声を上げましたが、その後、字義通りに世界中に広まりました。蒸気機関を「イギリス固有のもの」とは誰も思いません。それは単に人類の技術です。というよりも、人類という地域や文化性によらない概念こそが近代の基礎です。いうまでもなくこの「近代」の世界への伝播は西欧列強の植民地支配と帝国主義による産業革命の輸出=「異文化」の破壊であったことは忘れてはなりませんが、それはひとまず置きます。

近代同様、「近代美術」「近代絵画」も確かにヨーロッパ由来ではあっても、それは既に「人類」のものです。広島と長崎に投下された原子爆弾の暴虐の歴史が、決して広島や長崎の人々だけのものではなく、ましてや日本人だけのものでもなく、「人類」のものであるように。

従って近代絵画という視覚制度を習得した画家は世界中に現れます。2005年に『アジアのキュビズム』という展覧会が開かれましたが、こういった事が起きたのが「近代」です。ロンドンでもニューヨークでもウランバートルでもアジス・アベバでも近代建築は鉄骨とガラスの直方体=インターナショナルスタイルです。単に建物の様式の問題ではなく、いわば近代産業以後の時空間の合理性は必然的に四角いビルを生む、そのようなユニバーサルな価値観で世界を覆ったのが近代なわけです。

当然、それぞれの地域の近代、モダニズムは個別に偏差がありますが、それを言うならイギリスとフランスとドイツとイタリアの「近代絵画」も偏差を持ちます。ここで重要なのは、その「近代」は、いずれ乗り越えられなければならないことが「人類」に深く自覚されたことです。近代のもたらした原子爆弾や大量虐殺、環境破壊や原発事故は、端的に乗り越えなければ「人類」は生き残れない。その近代の美的イデオムである「近代絵画」もまた乗り越えられるべきものです。そうして、様々な美術的試みが世界中で展開したわけです。「現代美術」とは、そのような「近代美術批判」であることを確認しておきましょう。

カンの良い方はもう理解されているでしょうが、近代絵画を習得している戸塚伸也という画家が、その上で近代の文法を乗り越える絵画を描くことは、これは、戸塚さん個人に近代を乗り越えよう、という動機がなかったとしても、いわば時代構造的にみてとれるわけです。実際、戸塚さんは必要になればいつでも近代的な絵画構造を持ち出します。下の画像を見てみてください。

画像1

この画像を白黒にしてみます。

画像2

はい、近代的空間構造です。前のブログで紹介したこちらもそう。

画像3

どちらも2013年の作ですから、ますます意図的です。

ところが、以下の作品は白黒にしようがなんだろうが、「近代絵画」をオーバーしていこうとしています。

画像4

こういった作品は、明らかに戸塚さんが選択的に、絵画の構造を必要に応じて構築していることを示します。例えば対象が解体していくような作品の場合は、まさにモダニズム絵画が解体されていくプロセスを戸塚さんが追体験しているようにも見えてくる。ここで、一時期のカンディンスキーと戸塚作品を並べてみましょう。まず戸塚さんの作品。『水道』2012年の作品です。F50。

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カンディンスキーの作品は以下です。『インプロビゼーション26』1912年。

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岡本太郎と戸塚作品も並べると面白いです。まず戸塚さんの作品。『機械の花』2009年、F10。

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そして岡本太郎。『空間』1934年の作品を1954年に再製作。

画像8

いかがでしょう。カンディンスキーも岡本太郎も、近代絵画に「異なる」言語を導入してきて、絵画を革新しようとしていたことは良く知られています。戸塚さんの作品の連なりが、いかに「異なった言語」を構築しているようであっても、その奥底に、明らかに近代絵画が自らを解体し批判し乗り越えようとした(そしてそれこそが「近代美術」を駆動してきた)運動と、一定の関係を持っていることは了解できると思います。つまり、言葉の実に純粋な意味で、戸塚伸也という画家は「現代美術家」なのです。

とはいえ、このように戸塚さんの絵画的試みを美術史的にマッピングし一般化することは、やはり戸塚さんの潜勢力を削いでしまうことになりかねません。この画家には、どこかにやはり宇宙人的な手触りがある。戸塚伸也という画家をたんに風変わりな画風の持ち主とだけ見る愚を回避したうえで、戸塚さんの「差異」を、改めて深掘りしていくことを「私的占領、絵画の論理」では目指したいと思っています。

※「私的占領、絵画の論理」は要予約です。関心ある方はこちらへ。


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