連続対談「私的占領、絵画の論理」について。その23 「世界がすべて“文字”のように立ち現れる(そしてそれが物語られる)」

引き続き、戸塚伸也さんの絵画の特異性について考えていきます。戸塚さんが「認識するという行動によって「そのもの」との誤差があるものが自分の見るもの」と言う、この「そのもの」と「認識するという行動によって」生じる「誤差」は、どのように絵画をかたちづくるのでしょうか。

まず、僕が戸塚さんの作品の空間の骨格を捉えようとしたとき、色彩を棚上げして作品画像を白黒変換してみたことを思い出してください。つまり、戸塚さんが独特の空間表現をしようとしたとき、行われる操作として色彩の「組み換え」あるいは「ずらし」がある。端的に言えば、固有色を一度対象からはぎとり、改めて戸塚さんなりの思考にそって色彩を再配置するという手法があります。わかりやすいので、一度白黒化した作品をもう一度みましょう。『電気街 Electric town(Akihabara)』です。2013年、F8。

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空は緑であり、建物は虹のように塗り分けられ、道は紫やベージュ、水色です。これが秋葉原という、町全体が一種の広告で埋め尽くされ「固有色」をはぎとられた色彩記号の町がモチーフであることは関連があるかもしれませんが、しかしなまじっか遠近法に基づいたオーソドックスな骨格に、このようなモノと色彩の関係をずらした画面を作られるとかえって不穏になります。

戸塚さんが単にめちゃくちゃな色彩配置で「変な絵」を描く作家でないことは、普通に固有色を尊重しながら、ちょっとだけ操作を加えるような絵で逆に理解できます。2009年に描かれた『湖 The lake』はF100号の大作ですが、おおよそ対象の固有色は保たれている。

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しかし、色彩についてここで戸塚さんは空と山中、地面に奇妙な色彩を使います。ちょっと実作を見ないと何色、と断定できないのですが(僕はこの作品を見ていません)、紫のような色が、ここだけ対象の色から浮遊している。地面の消失点とその向こうの湖の消失点がずらされていることとも相まって、この部分的な色彩のズレが画面をどこか不安なものにしています。

色彩に加えて、戸塚さんが画面内に配置する複数のモノの関係が、戸塚さんなりのロジックで分離され結び付けられるのも重要な点です。戸塚さんのステートメントで、それは明らかでした。改めてもう一度、重要なセンテンスを引用しましょう。

一定時間、見たり聞いたり感じた情報
の後、そういった時間が存在することに
意味があったかどうかを考えることが
よくありますが、
僕はその情報を自分の思想、美意識に従って
並べ替えようとしているようです。
 
対象物を自分だけが違う認識をする文字の
ように捉えて、意味のある物語を伝えること
が、僕のやるべきことだと思っています。

このステートメントは感動的で、戸塚さんの絵画を見るときに何度でも立ち返りたい文書です。2009年の『デザート dessert』(F10)はこの、複数のモノの関係の組み合わせにおける戸塚さんの手法がわかりやすい作品です。

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「人」と「植物(サボテン)」が、あり得ない形で結び付いている。「情報を自分の思想、美意識に従って/並べ替え/対象物を自分だけが違う認識をする文字のように捉えて、意味のある物語を伝える」。まさに、その通りのことが行われています。

対象を文字のように捉えて、「意味のある物語を伝える」と戸塚さんが言うとき、逆に文字が対象物のように実体化することもあります。2012年の『あふまァニニャジャド』(F25)のような作品は、まんま「文字」が描かれます。

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こういった作品は戸塚さんの絵を見るとき、キーポイントとなります。文字が対象になってそれが組み合わされ「物語」になる。つまり、戸塚さんの絵において、文字ではない個々の対象も、戸塚さんの中で「文字」となって再配置されている。ここで戸塚さんは、なかば文章=物語を「書く」ように、絵を「描く」のです。僕がこのブログで、戸塚さんの絵には言語的論理構造、文法(シンタックス)がある、というのは、このような現れ方でも確認できます。これも一度取り上げた、2017年の作品『おんどARUKIパフォーマー~記憶焼付装置~』(215×334mm)は、まさにそのように書かれた・描かれた作品といえるのではないでしょうか。

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ここまでで見たように、戸塚伸也という画家は、絵を描くとき、明らかに対象を分解=分析して、それを文字で文章を書くように再配置し再統合しています。このとき分解され再統合されるのは対象の色彩も含めてです。今回、画像を基に記述せざるを得なかったので、マチエールについては棚上げしてしまいましたが、絵肌やタッチも分解と再統合の対象になっているのではないかと考えます。

世界がすべて「文字」として(戸塚さんは「情報」と言いますが)立ち現れる──戸塚さんの絵が“症候”的に見えるのには、このような理由があると思われます。

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