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心の自由とは心の余白?

余裕があるかないかっていう指標って大事だなと思う。 

 時間の余裕。  お金の余裕。 心の余裕。

 人に愛をもって接せるか、という時ってこの「余裕」ってめっちゃ大切だよな。と、思っていた。 というのも、今日、階段を歩いている時に前の人が傘を落とした。その時の自分の心の内をチェック。波立ってはいない、苛ついてもない。少し待ってその人が傘を拾うのを待つ。というなんでもないことだったけど、この出来事から心の余裕について考えた。 もし、今急いでいたりしたら、私は少し焦ったり、苛ついたりもしかしたらするかもしれない。そういう意味で今は「時間的余裕」「心の余裕」があるから、私は波立たないでいられたなあと思った。いや、波立つことが悪いわけではない。そのことを封印することはどうかと思うが、なるほど、「余裕」「余白」って結構普遍的に物事と相対する時の大切なものだなと思った。 

 ふーん。と思った、次の瞬間、

「   あーーーー!!!あの人も余裕がなかったんだ。」 

 と思った。というか思えた。 昔お堅い職場の事務仕事をしていた頃、生まれてはじめていじめを体験した。隣の席に座っていたその人から終始無視された。たまに暴言を独り言のように吐かれた。 結果的に私は大きな視点からでは、この出来事は私を創作の道へ導いていてくれていたとは思ったし、その人は悪役を演じてくれた、と魂では感謝している人。それは確か。 ただ、ことあるごとに思い出す人。人間としては理解に苦しむ人に変わりなかった。 でも、今日「余裕」について考えた時、うわっ、あの人極端に余裕が無かったんだわ。と肚落ちした。身体が理解した。それは彼女の一部を自分の中にもなんとなく感じたから。 これは「ゆるす」とは若干ニュアンスが違う気がするのだが、「在る」を理解する、認識するという感じ。5年以上経ってもなんとななく私にとってまだ未消化な出来事だったんだなと気付いた。 

 自由の旗をふるというのも、心自由であること、つまり心にどんな時も余白を持って、色んな視点から、現実、現状の状態を見つめることができることということだ。余白のない状態では心はいっぱいいっぱいで、自分の中の光を見つけることができない。フラットな状態、我に帰ることができない。ああ、この余白、スペースが「自由」ってことなのかなって思いました。

 心の中の真っ白なキャンバス。その自由。可能性。 相変わらず、本当、自分に向き合うことに限りはなくエンドレスじゃー!!!っと改めて思った次第です。 現場からは以上です。

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