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「何でもできる人」は「何もできない人」

若い頃、何でもできる人に憧れていた。

何でも知っている。何でもうまく器用にこなす。

そういう人を憧れのまなざしで見ていた。
しかし、ある程度大人になってから、それは少し違うのかも、と思うようになってきた。

というのも、人間の時間は有限であり、それゆえに、各個人が伸ばせる能力というのもまた有限だと気付いたからだ。

時間が有限なのだから、結果的に、その時間を使って色んなことができるようになっても、そこから生まれるのは「色んなことをそこそこできる人」であり、「何かの分野で人を感動させられるクオリティのものを生み出せる人」にはなれないのではないかと思った。そういう人になれない、というよりは、それだけに一点集中している人には勝てない、といった方が分かりやすいだろうか。

例えば、私の好きなコンテンツを生み出した人たちを思い返してみても、その人たちは皆、何かのプロフェッショナルだった。
漫画ならプロの漫画家、小説ならプロの小説家、新書なら専門家。
それらの多くは「漫画の神様」と呼ばれていたり、「文豪」と呼ばれているような、プロ中のプロの人たちによって生み出されたものだ。

そういった人たちは、自分の分野に一点集中したからこそ、誰かを感動させることができるクオリティのものを生み出すことができたのではないか。

企業にも選択と集中という有名な戦略があるが、あれはそのまま、人間にも当てはまるのではないか。そう思うようになった。

そういう風に、自分の視点には大人になるにつれ、良くも悪くも、資本主義的な価値基準が加わっていっていった。(西欧的価値観に浸食されたとも言えるかもしれない。資本主義は日本人が自然に生きてきた世界観からは生まれないような、西欧文明の精神を基にしたある種の思想だからだ)

資本主義において重要なのは、他者に与える価値だ。企業はそのサービスが生み出す価値で世間から評価され、対価を得るし、株式会社の場合であれば、PERやROEのような価値を判断する指標を株主が参照することで、実際に株値が変動していく。

他者に価値を提供することで、その対価が得られる、というのが資本主義の基本だ。

例えばスタバのようなカフェも、単なる場所を提供しているのではなく、居心地の良い雰囲気や、スタバで意識高く過ごしている自分、といった情緒的価値を提供している。もしただの居場所を提供するだけで十分なら、スタバの客はみんなマクドナルドに流れるはずだ。これは割と、手垢のついた意見ではある。しかし結局、スタバのような分かりやすい形ではなくても、企業というのは全て、何らかの独自の価値を効率よく提供するために存在する。そういう軸で考えれば、企業という概念もスッキリして見えるし、選択と集中の大切さが分かる。

そして一個人もある種、一つの企業みたいなものだと思うのだ。遊びが得意な人、研究が得意な人、手先が器用な人、芸術が得意な人、人間関係の根回しが得意な人…。様々な尖りを持った人たちが世の中には存在する。多くの企業が、個人の尖りと似たようなことを強みにして利益を出していることからも、その類似性は確認できる。

そして、企業がみんな、選択と集中をある程度しているのであれば、個々人もそれをしていった方が、経済的には報われる率が高いのではないか。少なくとも、平均年収くらいの収入が手に入るくらいの選択と集中は必須ではないだろうか。有名なマズローの5段階欲求説では、まずはピラミッドの下の部分の生理的欲求、安全欲求といった経済的な余裕によって満たせるものを満たしていかないと、さらに高次の社会的欲求や自己実現欲求といったところが満たされないと言われている。つまり人生の満足度という観点からも、選択と集中が有効に働く傾向があるように思う。

資本主義においては選択と集中が価値を生み、その価値が対価を生み、その対価がより高次な欲求を満たせる環境を生み、より高次な欲求を満たせる環境が質の高い幸福を生む。そういう意味でも、なんでもできる人は価値が低く、何かひとつをすごくできる人は価値が高い、という傾向がやはりそこにはある。

そして、もう少し込み入った話になるが、その選択と集中ができているかどうかというのは、結局、「軸」があるかどうかで決まると個人的には思っている。

一見、全く異なることをしていても、そこに軸があって、かつその軸においては他の追随を許さないレベルにあるのであれば、一見、他の人から何をやっているか分からないように見えてたり、てんでバラバラなことをしているように見えても、その人は選択と集中ができていると言える。

結局は、どういった切り取り方や抽象度で物事を見るかで、その軸は変わってくる。しかし大切なのは、とにかく何でもいいから自分の軸を持つことだと思う。なぜなら、自分の軸こそがオリジナルな価値を生む源泉だからだ。

よくいう「コモディティ」とは結局のところ、その軸がないことを指すのだと思う。そして一昔であれば、その軸があっても、ある程度、既存のマーケットにハマるものでないと経済的に報われない傾向にあったが、今は様々なプラットフォームにより、そういった軸を利用したマネタイズも少しずつ可能になってきている。未来社会においてはさらにそうなる可能性が高い。

生きていく中で、冒頭の「何でもできる人」には、どこか軸がないように見えてしまうことが増えた。だから同時に「何もできない人」にも見えるようになってしまった。逆にいうと「ほとんど何もできないけれど、一つのことだけはできる人」は、その人なりの軸がある「何かができる人」である可能性が高いと言える。

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