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カメラが人との距離を保つための装置だった頃

今はもっぱらスマホのカメラしか使わなくなってしまったけれど、5~6年ほど一眼で写真を撮っていた時期がある。

祖父は写真好きなひとで、海外に行っては数百枚もの写真を撮ってきてよく孫の私に見せていた。高校の終わりごろ、買い替えにともなってカメラを譲ってくれることになり初めてCanonの一眼レフを手に入れることになった。

それまでは仲のいい同級生がカメラ部だったこともあり、なんとなく自分は手を出せないと思っていた。きっと何かをするにはそれなりにならないといけないという思い込みがあって素人が表現を追求したり「それっぽい」ことをするのも抵抗があったのだとおもう。祖父が撮っていた写真だって、港や建築、市場の風景など何気ないものだったのに。

大学に進学して所属した団体はそこそこ大きくカメラ担当が少なかったので、ひまなときは記録係として部室の日常や業務中の人の写真を撮っていたんだけど、今思えばそれは自分なりに人との距離感を適切に保つためでもあったなぁと思う。

写真を撮っていた理由はもう一つあるといえばあるのだけど。

当時は環境の変化が重なったせいか、そこにいるし会話もするけど人と関わるのが意味もなくしんどい状態だった(たぶん私の座敷わらしライフはここから始まっている)。
極度の緊張で人と食事することもままならないので、ご飯に誘われても心配をかけないように「もう食事は済ませました」と嘘をつかなければいけないほどだった。
※今では信じられないほどもりもり人とご飯を食べています。

写真を撮る側は、「現場」で違う動きができる特権がある。人々が協調性をもって活動したり、遊んだりしている最中に、すこし俯瞰した場所から観察できるし、輪からはずれてどこかにふらふら行っても心配されない。でも場にはかかわっているという絶妙な距離。

思えば、離れているけど離れすぎないその立ち位置がほしくて写真を撮っていた節もある。みんなが花火をして楽しそうにしているのを少し離れたところから眺めるほうがほどよい人もいるのだ。

その立ち位置をとるのは今でも変わっていない部分もあって、誰かの説明をみんなで囲んで聞くような場だったり、イベントで大勢集まる場では、すこしだけ端で輪の外にいるほうが都合がいい。

だけど、この撮り方(かかわり方と言い換えてもいい)では写せるものに限界があるのも分かっていて、撮る側と撮られる側の非対称性だったり、安心感がないと何かしらの暴力性もはらみかねないのも感じていた。いつからか、距離を保つための装置としてではなく、ちゃんと写真を撮りたいと思っていた。付かず離れずの距離で写真を撮るのは、記録としてはよくても、記録をとる必要がなくなってしまったとき、私はファインダーを通して理想の写真を撮るのは無理だと悟り、人を撮ることをやめてしまった。

それ以降は、たまに街や朝焼けを撮ったり、仲のいい友人をスマホでおさめたりする程度だけど、日常のたわいもない一瞬があとから見返したときに泣きたくなるような写真になると思うので、またそのうち人を撮れるようになるといいなと思っている。

その時は違う距離感で。

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