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社会契約論の実態と影響〜日本国憲法の前文〜

〜社会契約論の実態と影響〜日本国憲法の前文〜

はじめに
1 憲法の存在意義とは
2 現憲法の志向
⑴社会契約論(前文)
①ルソーの社会契約論とは
②ポップズの社会契約論とは
③GHQとの関わり合い=英米方式
⑵ロックの思想の反映
①労働や所有権、財産保護
②公共の福祉による保護
3 改正案から見えてくる未来
⑴社会契約論の欠如
⑵個人から人へ
終わりに
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はじめに
 なぜ憲法はあるのか。愚直な疑問であるが誰しも心のどこかで抱いているだろう。法律より優位に立ちつつも、生活する上ではあまり馴染みがない。憲法改正と話題になっているが、何を改正するか分からない。憲法とは国民と一番関係性の薄い法なのかもしれない。
 しかし、憲法の本質は「公権力に対する抑圧」である。公権力が守らなければならないルールである。現在多くの国で採用されている「近代的な憲法」は社会契約論をもとに公権力を制限するような形式を採っている。日本国憲法もその例外ではない。そのため、そのような点から見れば、国民はこの憲法を良く理解しなければならない。社会契約論を前文で唱えている以上、もっと積極的に憲法を知ろうとしなければいけない。
 今回検討するのは、社会契約論を結んでいる証拠とその具体例、そして社会契約論がどれほど重要なのかという点である。私たちの社会契約論を結んでいる意識を思い出していただければ幸いである。


1 憲法の存在意義
 国の基本的な法として憲法の概念は多義的であるが、ここで「近代的な憲法の意味」を基にして存在意義を検討していく。
 「近代的な意味の憲法」とは、18世紀末の革命(*1)に主張された個人の人権を保障し、国家権力を制限する国家の基本法である。国家は頻繁に国民の権利や自由を侵害してきた。憲法はその侵害を縛り、国民の権利を守るものとして作られた。そして、憲法が発展していく中で、自然権を保障するために社会契約(*2)が生まれ、資本主義の台頭に伴う格差に対応するために社会権、そして戦後のグローバル化に合わせて人権規約が強化された。こうしてみると、憲法が個人の尊重を軸に発展してきたことが分かる。

2 現憲法の意思
⑴ジョン・ロック的な社会契約論の前文

日本国憲法 前文 
 「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」(*3)

 憲法の前文は通常、憲法の制定由来や目的・趣旨、基本原理が示されている(*4)。この国をどこに向かわせるのか、どのような軸を持って進んでいくのか。国にとっての根本的なものを表しているのが憲法の前文である。そのようなことを踏まえ、憲法の前文を読めば、その国の国家像を簡単に理解することができる。現在の日本国憲法が前文で示しているの考えは、文科省が出している『あたらしい憲法のはなし』によると、「民主主義」・「国際平和主義」・「主権在民主義」である(*5)(現在の学校教育で教えられている「国民主権」・「基本的人権の尊重」・「平和主義」の三原則とは異なっている)。日本はこの憲法の前文に記載された三大原則を下に行動し、そのような手段や目的を持って進んでいくことになる。だが、本当にそうなのであろうか。
 篠田氏によると、先ほど明記した三大原理は必ずしも「原理」であることは自明ではないようだ。三大原則の一つである「平和主義」は「原理」ではなく、戦争回避のための一種の「目的」であり、また「諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすること」という前文は、あくまでも憲法制定の「目的」を示しているのに過ぎず、「原理」を表すような抽象性はないと主張している。
 彼が日本国憲法前文から導き出した「原理」は何か。それは「信託」である。前文には「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである」がある。篠田氏はこの「国民の厳粛な信託」が日本国憲法の「原理」であると主張している。確かに後に続く「この憲法は、かかる原理に基くものである」という繋がりにも正当性があるし、この「原理」を達成するために「民主主義」や「主権在民主義」が設定されているとすれば上手く繋がる(*6)。
 このように、日本国憲法の前文に現れている「原理」は『あたらしい憲法のはなし』で示された三大原則ではなく、「国民の厳粛な信託」である。では、この「国民の厳粛な信託」とはなんだろか。それは社会契約論である。社会契約論とは、社会を構成する人々が互いの生活を円滑に送るために相互に契約し、その契約に基づいて政府などの機関が活動していくものである(*7)。それはロックやルソーと言った政治哲学者たちが解いたもので、近代憲法には必ずと言っていいほど含まれていると言ってもいいだろう(*8)。社会契約論にも色々あるが、現在の日本国憲法はロック的な社会契約論の影響を受けていることは、以下の3つの点から説明できるだろう。


①ルソーの社会契約論との区別
 社会契約論といっても、それはロックだけのものをさすだけではない。18世紀のフランスで活躍したルソーも、彼ならではの社会契約論を説いている。どちらも同じ名前であるが、中身は著しく異なる。そこで疑問になるのが、どのような点でロックの社会契約論の方が日本国憲法に似ているのだろうか。
 まずはルソーの社会契約論を見ていこう。彼の社会契約論は「人民の一人一人が自分の持つすべての権利とともに自分を共同体全体に完全譲渡すること」である(*9)。そうすると、譲渡されてきた個人の意思が集まり、集合体になる。これがルソーの言う「一般意志」である。主催者は、それを踏まえて、この「一般意志」を反映させていく。これがルソーの社会契約論である。彼の社会契約論は政府と人民の関係性が極めて薄いため、自己と譲渡先である共同体が近い体系になっていることが分かる(*10)。
 ロックの社会契約論は、先ほども示した通り「自然権を持つ人民が政府と契約を結び、信託をする」ことである。ここでは政府はただの執行機関でも、ルソーの社会契約論とは異なり人民と同体系でない。政府は「信託」に基づいて、人民の利益の代弁者として行動する(*11)。しかし、ルソーの社会契約論は政府と人民は契約するのではない。彼の社会契約論は集合化された「一般意志」をただ執行するだけである。しかも、この「一般意志」には絶対服従しなければならない。ロックの社会契約と異なり、政府と人民が切り離されて考えれているのが分かる。つまり、ルソーの社会契約論は契約に基づくのものではない。日本国憲法の前文にある「国民の厳粛な信託」に、彼の社会契約論は当てはまらない。
  このような点から現在の日本国憲法の前文は、ルソー的な社会契約論よりもロック的な社会契約論に基づいた原理であると言える。

 
②ホップズの社会契約論
 社会契約論はロックやルソーだけでなく、ホップズの概念もある。ただ、彼の社会契約論も日本国憲法に影響を与えているとは言えない。
 ホッブズの社会契約論で出てくる「自然状態」はロックの「自然状態」とは異なる。次の章で明記するが、ロックの自然状態ではある程度の秩序が存在する(*12)。だが、ホップズが定義する自然状態には秩序が存在しない。ホッブズが自然状態を「人は人に対してオオカミだ」と表現しているように、ボールみたいなものだ(*13)。そこにルールなどなく、ボールは転がり、ぶつかり合う。そんな無秩序状態から離脱するために、契約を交わす。契約を結び、すべての権利を一つの個人あるいは合議体に委ねる(*15)。この強大な組織、「リヴァイアサン」を作り、悲惨な自然状態から脱する。これがホッブズが主張する社会契約論である。ここまでみると、ホッブズの社会契約論は絶対主義を肯定しているようにも見えてしまう(*14)。実際、そのような批判もある。このような個人の権利をある程度軽視した社会契約論が日本国憲法に影響を与えたとは言い難いだろう。

③GHQとの関わり合い=英米方式
 戦後の日本政府は、マッカーサーの「憲法の自由主義化」という表現により、憲法改正の指示を受けた。それを受けた当時の首相である幣原喜重郎は憲法問題調査委委員会を設置し、憲法改正の意義を調査・研究を行った。しかし、そこで出された基本方針(*16)は、マッカーサーに受け入れられず、最終的には総司令部から与えられた「マッカーサー草案」を下に(*17)、「憲法改正草案要項」を作成し(*18)、これを日本国憲法として、公布及び施工した。そのため、現憲法はアメリカ寄りの英米思想の影響を強く受けていると言えるのではないだろうか。
 上記で示した通り、日本国憲法の前文にある「国民の厳粛な信託」はロック的な社会契約論が元になっている。また、ロックはアメリカやイギリスに歴史的な影響を当てているし、アメリカの独立宣言を起草したジェファーソンもロックの影響を受けている(*19)。そうすると、日本国憲法はアメリカの影響というよりも、英米の法思想を受けていると言え、また英米思想を下に解釈していった方がわかりやすいと言える。
 

⑵ロック思想と公共の福祉
 ロック的な社会契約論を日本国憲法は示している訳だが、そもそもなぜ社会契約論を結ぶ必要があるのか。ロック的な社会契約論を下に簡単に説明したい。
 ロック的な社会契約論は所有権の維持を目的としている。また、ロックは自然権を守るためには、所有権を守らなければならないと提唱した(*20)。ロック的な自然状態下では、ホップズのような「万人による万人の闘争」のような自然状態を想定していない(*21)が、そのような自然状態でも、自分で労働することなく、不正に所有権を侵害する輩が出てくる可能性はある(*22)。そこで、所有権を保護するために、相互の同意に基づいた契約を行う。このことから、ロック的な社会契約論は、所有権の維持を実現するために結ばれるものである。
 そういう理由で私たちは憲法の下で社会契約論を結んでいる。それは自然権を表した3章の27条「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」の労働の権利・義務や29条「財産権は、これを侵してはならない」の財産権から見ることができる。また、13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」の公共の福祉で、自然状態の制限を設け、所有権の保護を行なっている(*23)。
 ロック的な社会契約論は、日本国憲法の前文だけではなく、その後に続く条文にも色濃く現れているのである。
 
 このように、現在の日本国憲法は、GHQの草案から構成されている背景を考慮すれば、英米法に準拠した方法で解釈することができ、またそのように解釈すれば、ロック的な社会契約論の影響を受けていることが分かる。これは前文だけではなく、後に続く他の条文にも見られ、日本はロック的な社会契約論に基づいている国であることが言える。


3 改正案から見る未来の統治
 自民党は平成24年に「日本国憲法改正草案」(以下、自民党憲法改正案)を作成した。自民党は結党当初から憲法改正を目指しており、これまでにも多くの提言をしてきた。この項ではこの自民党憲法改正案が日本にどのような影響を与えていくか検討していく。

⑴社会契約論の欠如
 自民党憲法改正案では、どのような前文になっているのかをまずは確認する。

「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法及び司法の三権分立に基づいて統治される。
 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
 日本国民は、強度を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体がお互いに助け合って国家を形成する。
 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
 日本国民は、良き伝統と我々の国家を末長く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。」(*24)

 自民党憲法改正案前文では日本国憲法前文にあった社会契約論の基になっている「国民の厳粛な信託による」が記載されていない。別の用語に言い換えてあるのかと探して見たが、それに適当な用語も見当たらない。仮に「信託」の記載が削除されているとするならば、自民党憲法改正案は社会契約を放棄しようとしていることになる。
 社会契約を放棄することはどういうことか。近代以降の憲法は社会契約論をベースにして作成されている。その概念が抜け落ちるということは、近代以降の憲法的な意味合いが薄れてしまう。また、日本国憲法が採用している社会契約は上記でも述べた通り「労働で得た所有物を権利として保護し合うためのもの」である。自然状態でも不正を働く輩がいるので、それに対応するために契約を結ぶ。契約を放棄するということは、所有権が現在よりも曖昧または侵犯される危険性がある。そして、それに伴う形で所有権などの一部の自然権が蔑ろにされる可能性も出てくる(*25)。前文から社会契約論の概念がなくなることは想像以上にいろんな問題を生む(*26)。(*27)


⑵個人から人へ
 前文以外にも、社会契約論を放棄の面影が見られる条文がある。自民党憲法改正案では13条を「全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追及に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。」(*28)
に改正しようとしている。主な変更点として、「人として尊重」と「公益及び公の秩序」が挙げられる。また、自民党憲法改正案で新設される24条では「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、お互いに助け合わなければならない。」と明記されている。この二つが社会契約論の放棄にどう影響されたか見ていくことにする。

 上記に挙げたように、自民党憲法改正案である13条では、現憲法13条に明記されている「個人」が、「人」へと変更されている。あまり意味ないような変更点だが、この改正には多くの懐疑の声がある。歴史学者である住友陽文氏は、この改正に関して「この<人>というのは日本の伝統・文化・郷土を大事にして社会に迷惑をかけず家族や社会との調和を重んじる者だと言える」と述べている。(*29)また、「人」という括りにすることは、性別や年齢、人種などの「属性」で個人を判別する可能性を含んでいる(*30)。
 芦部信善の『憲法』では「・・・基本的人権とは、人間が社会を構成する自律的な個人として自由と生存を確保し、その尊厳性を維持するため、それに必要な一定の権利が人間に固有するものであることを前提として認め、そのように憲法以前に成立していると考えられる権利を憲法が実定的な法的権利として確認したもの、と言うことができる。したがって、人権を承認する根拠に造物主や自然法を持ち出す必要はなく、国際人権規約前文に述べられているように、<人間の固有の尊厳に由来する>と考えれば足りる。この人間尊厳の原理は<個人主義>とも言われ、日本国憲法は、この思想を<すべて国民は、個人として尊重される>(13条)という原理によって宣明している。」と述べており(*31)、自民党憲法改正案の前文でも「基本的人権の尊重」を唄っている限りは、芦部氏の言う「個人主義」を守らなければならない。そもそも、国際協調主義を採っている以上は、国際人権規約に当てはまるような「個人」を定義しなければいけない。
 また、自民党憲法改正案で新設される24条「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」がある。これは自民党憲法改正案前文の「日本国民は、強度を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体がお互いに助け合って国家を形成する」と「日本国民は、良き伝統と我々の国家を末長く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する」を具体的に実現するための条文であると言っていいだろう。このような家族を大切にしようとする心構えは素晴らしいことだが、近代以降の憲法は、国家権力の乱用を防ぎ、国民の権利を守る立憲主義的な目的があるため、このような条文を明記するのはいささか疑問がある(*32)。また、こういう文言を憲法に入れることは権利保障を解除に利用されてしまう可能性もある(*33)。
 そもそも、このような属性に応じた人権の改正は、国際協調主義を遵守しようと憲法で宣言している以上は適当ではない。国連憲章の前文「基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念を改めて確認し」や批准している「市民的及び政治権利に関する国際規約」(自由権規約)がある以上は、属性に応じた形式の人権を採用するのはいくらか疑問が残る。


終わりに
 日本国憲法が前文で表している社会契約論は今日まで有効に機能してきた。それは条文や生活に反映しているものもあれば、全く無視されている部分もある。しかし、憲法改正に迎えるにあたり、その形は変わろうとしている。社会契約論は約300年も前の概念であり、もはや過去の産物であることは否めない。これは半世紀以上、一度も改正がされていない日本国憲法にも同じことが言える。私は、自民党憲法改正案に懐疑的だ。ただ、それ以上に議論の根本として機能していることに悦びを感じている。明治期に巻き起こった憲法論争
では、植木枝盛の東洋大日本国国憲按や千葉卓三郎の五日市憲法などの多くの私擬憲法案が作成された。自民憲法改正案はそのような議論の活発化を促すような価値があると私は思う。


<註>
*1 イギリスの名誉革命(1668年)、アメリカの独立宣言(1776年)、フランス革命(1789年)など
*2 社会契約とは、自然権を保護するために相互に社会を構成するもの同士で契約すること。
谷口真由美『資料で考える憲法』、法律文化社、2018年、13頁
*3(http://www.dan.co.jp/~dankogai/blog/constitution-jimin.html)
(閲覧日2019/8/22)
*4 谷口真由美『資料で考える憲法』、法律文化社、2019年、46頁
*5 文科省『新しい憲法の話』、1947年 4,5頁
*6 篠田英朗『憲法学の病』、新潮新書、2019年、124~127頁
*7 谷口真由美『資料で考える憲法』、法律文化社、2018年、13頁
*8 谷口真由美『資料で考える憲法』、法律文化社、2018年、10頁
*9 東浩紀『一般意志2.0』講談社文庫、2015年、41、43頁
*10 篠田英朗『本当の憲法』ちくま新書、2017年、27頁
*11 篠田英朗『憲法の病』、新潮新書、2019年、134、135頁
*12 ジョン・ロック『市民政府論』、岩波文庫、1992年、10頁
*13 重田園江『社会契約論』、ちくま新書、33頁
*14 東浩紀『一般意志2.0』、講談社文庫、2015年、44頁
*15 リヴァイアサンとは旧約聖書に出てくる怪物である
「口からは火炎を吹き出し火の粉が飛び散る。煮えたぎる鍋の勢いで鼻からは煙が吹き出る。喉は燃える炭火、口からは炎が出る。首には猛威が宿り、顔には威嚇がみなぎっている。筋肉は幾重にも重なり合い、しっかり彼を包んでびくともしない。心臓は石のように硬く、石臼のように硬い。彼が立ち上がれば神々もおののき、取り乱して、逃げ惑う。剣も槍も、矢も投げ槍も彼を突きさすことはできない。」
小室直樹『痛快!憲法学、』集英社インターナショナル、2001年、30頁 
*16 「①天皇の統治原則は明治憲法と変わらない、②議会の権限を拡大する一方で、天皇の大権事項は制限する、③国務大臣の責務の拡大、④人民の権利拡大」
下篠芳明、東裕ら『日本国憲法』嵯峨野書院、2016年、19頁
*17 下篠芳明、東裕ら『日本国憲法』、嵯峨野書院、2016年、20頁
*18「日本の意向が反映されたのは、①二院生の復活、②国有化の削除、③家族条項の削除などがある」
下篠芳明、東裕ら『日本国憲法』、嵯峨野書院、2016年、21頁
*19 篠田英朗『憲法の病』、新潮新書、2019年、136頁
*20 ジョン・ロック『統治二論』、岩波文庫、1992年、296頁
*21 彼の想定する「自然状態」はホッブズが想定する「自然状態」とは異なる。ロックの自然状態は宗教信仰者(プロセテスタント)を基にしているため、ホップズほど深刻な状態を想像しなくてもよい
ジョン・ロック『統治二論』、岩波文庫、1992年、296頁
*22 ジョン・ロック『統治二論』、岩波文庫、1992年、298頁
*23 ジョン・ロック『統治二論』、岩波文庫、1992年、326頁 
*24 (https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/news/policy/130250_1.pdf) (閲覧日2019/8/22)
*25 元衆議院議員である片山さつき氏は、自民党憲法改正草案の前文に関したツイッターの投稿の中で「国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくてもいいと思ってしまうような天賦人権論をとるのはやめよう、というのが私達の基本的な考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!」(2012年12月16日)と述べていた(2019年8月現在削除済み)。この考え方は、自民党が公開している改正に関するQ&AのQ14(*1)の中でも、「天賦人権論は西欧の考え方である」と書かれており、また片山さつきが述べていた「国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか」という思考は、自民党憲法改正案の改正12条「〜国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」に如実に現れている。
https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/pamphlet/kenpou_qa.pdf (閲覧日2019/8/22)
*26 長谷部恭男氏は「近代国家が成立する前に存在していたのは、自然状態でなく身分制社会であり、そこでは、人は自然権ではなく、自分の属する身分や団体ごとに、それぞれ異なる義務と特権とを有していた」と述べている。それを踏まえるのであれば、社会契約論がなくとも、ロック的社会契約論の必要意義である「所有権」の保持は可能であるかもしれない。
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年、90頁 引用
*27 彼は国家の役割がロックのような所有権の保護ではなく、社会の幸福の最大化であるとしているので、このような自然権の放棄は、自然権を「大げさなナンセンス」と批判したベンサムのような功利主義の迎合かもしれない。
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年、44頁
*28 (https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/news/policy/130250_1.pdf ) (閲覧日2019/8/22)
*29 https://togetter.com/li/946553 (閲覧日2019/8/22)
 住友氏は、「伝統・文化・郷土」のようなものは人それぞれで尊重するべきだと主張している。この意見は至極真っ当であり、憲法の本質性に照らせば、「伝統・文化・郷土」は「個人」として尊重するのが妥当であろう。
*30 平家物語の「平家にあらずんば人にあらず」というように、属性わけで人間であるかの定義を変更することも可能性も出てくる。
*31 芦部信喜『憲法 第七版』、岩波書店、2019年、
ー芦部「憲法」の人間の尊厳性・人権の根拠(引用)
*32「公共の福祉」の改定の影響がここ(24条の新設)にも出てきてると言える。
樋口陽一『いま、「憲法改正」をどう考えるか』、岩波書店、2013年、106頁
*33 自分ではどうにも生活できなくなり、生活保護を申請しようとする際に、「家族扶養で対処してください」など憲法を理由に断れる妥当性が出てくる。 
橋下徹、木村草太『憲法問答』、徳間書店、2018年、35頁

<参考文献>
ジョン・ロック『統治二論』、岩波文庫、1992年
芦部信喜『憲法 第七版』、岩波書店、2019年
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2014年
下篠芳明、東裕ら『日本国憲法』、嵯峨野書院、2016年
東浩紀『一般意志2.0』、講談社文庫、2015年

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