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【短編小説】 幻肢の先

10分で読める短編小説シリーズ『MOMENTS』
10週連続公開(毎週日曜日更新)・その8

右腕を失くしたのは高2の夏だった。

野球部の県予選が始まる頃、骨の病気で切断した。
もともと130キロ代の速球を投げるピッチャーとして入学した学校だったから、僕は自分の生きる意味を、まるごと、ごっそり、失くしてしまったような気がしていた。

6階の病室の窓からは、道路を挟んだ先にある、大きなショッピングセンターの広い駐車場が見えた。

良く晴れた日の、午後3時。
僕は、色とりどりの自動車が出入りする駐車場を見ていた。
手を伸ばせば、ミニカーのようにつまめそうな気もした。

僕は腰の高さにある、窓を開けようとした。
そこで、右腕の肘に激痛が走り、そこから先がないことに、また、気づいた。
幻肢というやつだ。感覚では、まだ、そこにあるのだ。
だから右手をあげて、痛みを感じて、そこに何もないことを知る。
感覚はあるけれど、何にも触れられない。
右ひじの先だけが、幽霊になってしまった感覚。

いっそ全身、幽霊になってしまおうか。

左手で窓を開けると、身を乗り出した。
そのときだった。
誰かが、そこにあるはずのない、僕の右手をつかんで、後ろに引っ張った。

僕はぎょっとした。
現実に存在しない幻肢を、つかまれた驚き。
しかも病室には、僕一人しかいなかったのだ。

僕は、あとずさって窓を離れ、膝の裏をベッドにぶつけた。
そしてがらんとした病室を見まわし、次に、そこにはない右手の、手のひらのあるあたりを見た。
すると誰かが、もう存在しない僕の右手の手の平を⦅ぽん、ぽん⦆、とやさしく、二度押した。

僕はふたたび驚いて、そのまま、ベッドの上に腰を落とした。
その日以降、幻肢の感覚そのものが弱まっていった。

僕は高校を卒業すると地元の大型スポーツ店に就職した。
母校をはじめとする、地区の学校担当営業をしながら、販売士の資格を取った。
同時に水泳やスノーボードなどのスポーツも始めるようになった。
冬の苗場で素敵な女性に出会い、つきあうようになった。
僕の動作を見ていて、さりげなくアシストしてくれる女性だった。
住んでいる街も近く、2年つきあったのちに結婚することになった。
会社の仕事は順調だった。
妻と二人で暮らす古いアパート、202号室へ戻るときは、自然と早足になった。
独身時代に使っていたベッドをふたつ並べてダブルベッドにした寝室。
一日のやるべきことをすべて終え、並んで眠りに入るとき、僕は幸せを感じた。

ただ、僕は妻に言っていなかったことがあった。
それは、夢の話だ。
幻肢を、見えない何かにつかまれたとき以来、僕はある夢をたびたび見るようになっていた。

星のまばゆい夜。
僕はあの、病院の窓から落下する途中で止まっている。
肘までしかない右腕を、まっすぐ上に挙げ、宙づりになっている。
僕は感じるのだ。
そこにはない幻肢の右手を、誰かが握っていることを。
僕は空中に浮かんだまま、幻肢の先に目を凝らす……。

そして、目を覚ます。

これは、なんなのだろう。
夢を見る頻度がひんぱんになってきた頃、結婚記念日の夜、妻にこの夢の話をした。
ちいさなホールケーキの上で揺れる蝋燭の灯りに照らされた妻は、僕の目を見て、こう言った。
「世の中は目に見えているものがすべてじゃないし、見えないところで誰かが誰かを支えたり、支えられたりしているわけで、なにか、そういうものを大切にしたいと思っているのじゃないの?」
そういうものだろうか。

しかし、不思議なことに、それからあまり、この夢を見なくなった。

妻が妊娠をした。
結婚記念日から、ほどなくしてわかった。
すこしずつ大きくなってゆくお腹を見るたびに、僕の喜びも膨らんでいった。
どんな子どもが生まれてくるのだろう。
会うのが楽しみだった。

妻と一緒に歩くときは、ゆっくり歩くようにした。
階段の上り下りは、必ず自分が下になるよう、万が一に備えた。
そんなある日、妻と連れ立って買い物に行き、部屋に戻るときのことだった。

アパートの二階の部屋につづく階段。
左手に荷物を持った僕は、妻の後ろを上っていた。
「あ」という妻の声がした。
そして、目の前に、妻の体が倒れてきた。
そして僕は次の瞬間、荷物から手を放し、足をふんばり、両手で彼女の体を支え、受け止めていた。
僕は驚いた。
そこには右手の感覚があり、彼女の体を支えた感覚もあった。

ゆっくりと足を後ろに運び、彼女の体を落とさぬように注意深く支え、階段の一番下へとたどりついた。
そこで、僕の右腕の肘に、激痛が走った。
彼女は、へなへなと座ると、顔をしかめる僕の、右手があるあたりを、まず、見た。
手にとって確かめようとした。
しかし、そこにはなにもなかった。
階段を下り切ってしばらくすると、幻肢の感覚も、なくなっていた。

それから数日後。
妻のお腹は、いまもゆっくり、大きくなっている。
そのなかでは、まだ見ぬ我が子が成長している。
「それにしても不思議ねえ」
彼女は、テレビ番組のCM中などに、ときおり、思い出したように、そうつぶやく。
僕はそのたびに右手を見るが、そこにはなにもない。
妻が「あ。動いたよ」と声をあげた。
「ねえ、ねえ、ちょっとさわって、さわって」
彼女の声にうながされながら、左手でお腹をさわると、お腹の子は、

僕の手の平を、⦅ぽん、ぽん⦆、とやさしく二度、蹴った

その夜、僕はひさしぶりにあの夢を見た。

星のまばゆい夜。
僕はあの、病院の窓から落下する途中で止まっている。
肘までしかない右腕を、まっすぐ上に挙げ、宙づりになっている。
僕は感じるのだ。
そこにはない幻肢の右手を誰かが握って、僕が地上に落ちないよう、支えていることを。
僕は空中に浮かんだまま、幻肢の先に目を凝らす。
なぜか、胸の中に、うれしいような、せつないような、あたたかな感情が満ちてゆくのを感じる。

そして、目を覚ます。


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