ドラマ「不適切にもほどがある」を観て、改めて昭和より令和で社会人を送れていることに感謝する
少し前に人気を博したドラマの話をしたい。
昭和から令和にタイムスリップした中年男性サラリーマン(阿部サダヲ)が、令和の新常識に驚かされ、「こんな不自由な未来のために昭和のサラリーマンは頑張っていたわけじゃない!」と嘆く姿が印象的であった「不適切にもほどがある」。
昭和のサラリーマンにとって、志村けんのバカ殿やギルガメッシュナイト、トゥナイト2や初期のクレヨンしんちゃんのように、令和では放映できないテレビ番組が常時放映されていた。学校での教師による体罰もごく普通に行われ、職場でのセクハラまがいの発言も通常のように行われていた。
職場で上司に飲み会を誘われたら絶対であったし、土日のゴルフの付き合いも当たり前、社員旅行も当たり前、さらに細かいことを言えば同僚への年賀状は絶対であった。
そんな昭和のサラリーマンが令和に来たら、それは地獄のような世界であった、、、というのが本作品の面白さである。
「こんな未来のために俺たち昭和のサラリーマンは頑張っているんじゃない!」といった趣旨のセリフが最高に面白い。
だが、我々は本当に昭和世代から比べたら地獄のように窮屈でつまらない世界にいきているのだろうか。
実はドラマではなく現実の世界でも、私は昭和のサラリーマンから「昭和はよかった」的な趣旨の発言を受けたことがある。それも、大企業の役員からである。
すでに4、5年前の話になるが、前職で常務にまでなった役員の方(当時55歳くらい)と一緒に食事をした際、「今の30代の世代は大変だね。俺たちの世代はもう逃げ切ったので企業年金も出るし、福利厚生も充実していたし、出向先もあてがってくれたけど、どんどん会社も面倒を見ることが難しくなってきている。君の世代は自力でなんとかしないといけないかもね。ははは」と言われた。
どうやら企業戦士サラリーマンとしては、待遇の面での絶頂期はとうに過ぎており、これからは大変な時代が待っている、との言い方だった。
そして事実、この役員の発言を聞いた数年後、前職の福利公正は徐々に改悪されていった。住宅補助は管理職になった瞬間つかなくなり、社宅も徐々に縮小されていき、また企業年金も改悪が続いた。
ドラマだけでなく現実の世界でもこのような状況を見ていると、我々令和サラリーマン世代は昭和サラリーマン世代に比べて不幸なのだろうか、とも思えてくる。
だが、それでも自分は令和でサラリーマン生活を過ごすことができてよかったと思っている。
別に志村けんのバカ殿などを観なくても、今はYouTubeやネットフリックすに面白いコンテンツはごろごろ転がっている。そもそもバカ殿、ギルガメッシュナイトのようなHなシーンは非生産的である上に3秒で飽きるし、令和の時代はこうしたコンテンツに頼らずとも十分に楽しい番組・コンテンツが豊富だ。
サラリーマン生活においても、自分自身の自由な時間が取れるようになった。休日のゴルフは少なくなった。平日の実質強制の飲み会も、歓送迎会を除いては実質強制でなくなったし、社員旅行というものは既に絶滅をした。後輩や部下とは適度な距離を置くことで、過度な人間関係から生じるトラブルを回避できるようになった。
福利厚生は悪化したかも知れないが、生活の質は上がったように思う。
そして何よりも、一つの会社で一生を終えるような終身雇用の概念も徐々に崩壊しつつある。
昔は新卒で入った会社で一生を終え、その間外の世界を見ることも知ることもできないような、まさに大学卒業後にほぼ人生が決まってしまうような世界だったが、今はそれも崩れて多様な世界を知ることができるようになった。
また、令和では新たな職業も生まれているし、新たな働き方も生まれている。
サラリーマンとして生きるだけではなく、その窮屈な世界が嫌になったら抜け出してフリーランスとして活躍したり、また起業家として活躍したりする人も出てきた。こうした人々は昭和に生まれていたら社会不適合者のレッテルを貼られ十分にその才能を社会に還元できぬまま一生を終えた可能性が高い人たちである。
また、副業という概念も定着化した。ブログやXで広告収入を稼いだり、ココナラやランサーズで自分の専門的知識やスキルを販売することができるようにもなってきた。
令和の社会人は、昭和の社会人が得た安定性・将来予見性は失ったかも知れないが、多様性・自己責任の下でチャレンジできる可能性は手に入れることができている。
私としては令和で社会人人生を送れていることに感謝をしたい。そして、こうした社会人人生を送れているのも、まさに昭和世代のサラリーマンの方々が、平成時代に徐々に社会を変えてきてくれたから、なのでその点についても感謝をしたい。
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