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親鸞の歎異抄を読んで現代に生まれて良かったと感じる

「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)と唱えれば善人・悪人に関わらず誰でも極楽浄土に行ける」「ただし極楽に行けるかどうかは仏次第。自分自身で決められることではない」という簡易で明快な思想の下、鎌倉中期以降に浄土真宗を急速に読に広めた親鸞。

当時は現世で生きることが辛く、せめて死後の世界が良いものであるようにと望む者が多かったからこそ普及したのだろう。

現代でも死後の世界について信じる者はいるものの、死後の世界で幸せに暮らすことを期待し、現世を無碍に生きようとする者はいない。

死後の世界はあくまで生者の中にあるものであり、死者の中にはない。つまり、生者が死者を思い出し「今頃天国で元気に暮らしているかな」と思うことはあるけれども、心の奥底ではそれはフィクションであると理解しており死者が本当に天国で暮らしているなどとは思わない。

人々が飢饉や疫病で苦しんでいた時、世の中の混乱を仏教の力を以て収めようとしたのが奈良時代であり、その具体的な解決策が奈良の大仏の建設だった。今の時代であれば食糧とワクチンを作ってくれという話であろう。今生きることに金を使ってくれ、ということである。

キリスト教に目をむけてみる。プロテスタントは宗教改革の時代は職務を全うし蓄財することが自分が神に示すことのできる善行の何よりの証だったのかもしれない。ただ、現代社会では蓄財は神のためでなく、あくまで現世における自分自分や家族等のためとなり、その対象となる目的が変わっている。

奈良時代や鎌倉時代のように、来世や死後の世界に期待しながら生きる現世とは一体どのような世界だったのだろうか。死後の世界があると本気で信じることにより、むしろ現世で生きる力を失ったりしないのだろうか。「悪人でも善人でも救われる。極楽に行けるのも仏様次第。ならば何をやても同
じじゃないか」というモラルハザードを引き起こしかねないのではないか(実際、浄土真宗はこうした危険性をはらむものであったためか、当時弾圧された)。

死後の世界の存在を絶対視せず、あくまで生者が今をよりよく生きるためのフィクションと位置づけ、現世における生を全うしようという思想がもはや当たり前になっている現代に生まれて心から良かったと思えた著作だった。



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