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民藝的デザイン展準備中・その選定基準とは

皆さんは「民藝運動」とか関係なく、全然それがなんだかも知らなくても自身の「直感」で、なんだかいいなと思うことってありますよね。

デザイナーを30年もやっていると、ずっとデザインもの事を考えたり、見たり、聞いたり、もらったり、あげたり、使ったりしていますので、そこにある流行や、デザイナーの顔が浮かんだりと、デザイン表現のいろんなことが見えます。

ここにも前に書きましたが、DEAN & DELUCAには「フードイズビューティフル」という思想があります。パッケージデザイン的に言うと「中身の食べ物の美しさ以上に、パッケージは主張しない」となるようです。

食品パッケージはやたらと完成写真(みたいな)ものが使われ、その下に小さく「写真はイメージです」と書かれている。
私たちはイメージ写真を見ながら、長らくものを購入してきたとも言えます。要するに、デザインで誇張され、それに反応して買ってきたわけです。そして、デザイナーというデザインのプロたちは、そこに加担してきました。

数年前に高知をベースに活躍する梅原真さんというデザイナーに注目が集まりました。彼のデザインは手書きを駆使した田舎っぽいもので、そこには「田舎で作っている商品なんだから、田舎臭くていいはず。しかし、そこに少しだけ整えたデザインが必要」という感じで、「田舎くさいけれど、なんとなく格好いい」というこれまであったような、なかった世界がありました。ちょうど、日本中が、日本のあちこちに関心が湧き始めていた頃です。

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その前は、というと、民藝作家と言われている芹沢銈介や河井寛次郎、濱田庄司などが本の装丁やお菓子のパッケージなんかをやっていました。この時代の彼らの表現には、今のような流通させたり、競争させたりという濁った発想がありませんでしたので、本当に健やかに心からそのひとのためにデザインしてあげたいという気持ちから、その土地にあるモチーフや、素材を使って作られました。これは中身とパッケージデザインが、同時代的とでも言いましょうか、海外への身の丈に合わない背伸びもないし、イメージでごまかすというか、誇張することもありません。

今回の展覧会は、そんな視点でものを選んでいきました。

例えば、宮城県からは「気仙沼ニッティング」を取り上げました。彼女らの「ニット」は、まず震災をきっかけにしています。その復興の気持ちから、編み物を編める主婦を募り、そこにデザインを盛り込み、この物語を伝え、ニットが欲しいひとの情報を編む主婦に伝える。逆に欲しいひとには、どんな人が編んでくれるかを伝える。そこに雇用が生まれ。働く主婦の輝きが生まれる。数ヶ月かけ、つまり、数ヶ月待ってニットは完成する。値段は10万円を超えます。しかし、それでも欲しいと思うものです。

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高品質で値段も安く、ほどほどに今のトレンドが表現され、目の前で、もしくはWebストアでワンクリックで明日届くニットもあります。そこにもデザインはある。しかし、なんでしょうね。気仙沼ニッティングのニットにある、なんとも言えない少量ですが、量産されながらも、奇跡のようななんとも表現しがたいデザインの美しさが彼女らのニットにはあります。

なんだろう、このじわっと感じる癒しのような形、表現・・・・。一点モノじゃないのに、心がこもっていることがなんだか伝わってくる。

そういうデザインがある。そして、そうではないデザインもあるのです。

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僕は10年前は「民藝」はあまり好きではありませんでした。運動という割には、骨董やアンティークの世界に似ていて、昔のこと。過去に収集されたモノのことだと思っていたからです。
ある時、それが勘違いだと気付かされ、そこにある「現代にも通じるものを生み出すとき、見るときの視点」にある普遍性に驚きもしました。

ある日、僕は東京駒場にある日本民藝館にいきました。まだ、僕にはそこに展示されているものたちの「美しさ」はわかりませんでしたが、最後に立ち寄った売店に柳宗理のステンレスボールが置いてあって、そこで雷が落ちたような衝撃を受けました。「なぜ、手仕事の商品、そして、民藝的な商品らの中に、工業製品が置かれているのか、なぜ、それは許されたのか」でした。


つづく

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ロングセラー「ナガオカケンメイの考え」の続編として、未だ、怒り続けているデザイナー、ナガオカケンメイの日記です。

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あの「ナガオカケンメイの考え」の続編です。基本的に怒っています。笑なんなんだょ!!って思って書いています。

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