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対話の根っこ

僕は情報をベースに会話をする人が苦手です。

学歴社会を生きてきたよう人たちにそれが多いように思う。「何年にこういう人がこう言った」とか、「あの国では、昔からこうした歴史がある」とか。もちろん、その人が「経験」したことなら逆にどれだけでも聞きたい。だから僕は「経験」しかないと思っている。情報も努力してその人が「調べた」ことだから、仕方ないけれど、なんだか「そういう世の中だ」と知りながら、そうした情報を会話の中に盛ることで、自分の知識をひけらかしているように思えて嫌になる。自分の言葉で話す人は、会話がとってもシンプルだ。

多くの人の会話の中の情報はネットかイメージ。そこには実際の経験は少ない。
「知っている」という意味が間違っていたりする。

情報として知っているのと、体験から身にしみて「知っている」のとでは、雲泥の差だと思う。ネットで適当に拾った情報を「君、知らないの?」とか言う大学の先生なんかに会うと、世も末だと思う。

僕はひねくれているので、人と話す時、「その人の対話の根っこ」を探してしまう。

対話にちゃんと根本がある人は枝葉や花の咲き方、つまり話の内容も奥深い。そう言う人たちには「心のゆとり」が差になってじんわり現れる。

さてさて、自分は最近どうだろう。人との対話の中で、言わなくてもいい見栄っ張りをしてはいないだろうか。はたまた、本を読んだだけで、さもそれを得とくしているかのように話していたりはしなしだろうか。これは難しい。人間の欲にも関わってくる。「欲」って、嫌ですね。

根っこがなくても花を咲かせられる時代にこそ、生きているからこその大地への根の張り方をしたい。

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