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129:平成ノスタルジアな生活

・完全に妄想というかイメージでしかないが、平成初期とか中期とかくらいでサラリーマンをやってみたかったな、と思うことがそこそこ多い。
・外の情報が手に入りにくく、メタ認知が醸成されにくい世界の中──その生活しか知り得ない時代で、会社のために身を粉にして働くことにロマンを感じる。

・炎天下の中ビスポークで作った背広に身を包みブリーフケースを抱えながら、涼を取るべく新橋などにある喫茶店で紫煙をくゆらせる人生など、憧れを持たないわけがない。

***

・自分の新卒の会社は古くからある製造業で、全国に工場・営業支店をもつそこそこ大きい会社だった。
・その中でも自分は顧客が建設業というなんとも汗臭い営業支店の中で、日々工事現場の監督に酌をしながら過ごしていた。

・そのような生活を送ることに関しては、まぁ仕事だったしな、と振り返るとそこまで苦ではなかったような気がしている。
・その頃の自分は相当苦しんでいたようだが。

・残念ながら先の生活に未来を見出すことができず、ほどなくしてその会社は辞めた。
・だが、今考えるとあの時の職場には良い人が多かったな、と時々自分を世話してくれた先輩や上司を思い出す。

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・顧客が頭の固いおっさんばかりだったのもあり、また主に扱っている商材も会社の中では少し特殊だったので、世の中を何も知らない若造が仕事をしていくには少し難しい側面があった。
・そのためその営業支店にいた人のほとんどはベテランで、自分の周辺にいた世代は久々の新人ということだった。毎年その支店に新卒が配属されるわけではない。

・であるが故か、その営業支店を取りまとめている支店長という役職の人は、親分肌であった。
・その人はよく「お前は何もできないんだから、3年は辞めちゃだめだ」と自分に対して言っていた。
・自分の頑張りが評価されていないような気がしていて、あまりその言葉は嬉しくないと思っていた。

・ただそれは裏を返すと「3年間は何があっても守ってやる」ということであった。
・その人は、たとえ年齢がいくつであっても、全く仕事ができない人であっても、異動などでその支店に入った者は3年間は絶対に手放さなかった。

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・最初に自分の世話をしてくれた先輩の言葉もよく覚えている。
・先輩といっても40歳ちょっとの係長という役職の人だった。

・その先輩は「意味が分からないことでも言われたことはとりあえずやってみろ」ということをよく自分に言っていた。
・うじうじと考え込む自分に、本当によく言ってくれていた。

・続く言葉としては「いずれわかるようになる」といったことだった。

・今振り返ると、あの時よくわからずにやっていたことの意味がよくわかる。
・わかったことの詳細を話すとかなり長くなるので、それはまたどこかの記事で気が向いたら。

・あの人は自分に仕事のやり方を最初に教えてくれた、良い人だった。
・社会人としての立ち振る舞いも教えようとしてくれていたのだろう。

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・ちなみに自分の直属の上長である課長は、半期ごとに行われる定次評価では自分にそこそこ高い評価をつけてくれていた。
・100人くらいいた同期たちの中では50歩100歩とは言え、ボーナスは比較的高い方だった。

・今は事業部長となったその支店長は、自分を直接評価する立場ではないことを分かった上で、そのような言葉をかけてくれていたのだろう。
・今は課長代理となったその係長は、自分をそもそも評価する立場ではないことを分かった上で、そのような言葉をかけてくれていたのだろう。

・青い芝生など見えなければ、辞めることはなかったかもしれない。
・会社員として生きていくことが絶対的な正である世の中であれば、あの環境は少なくとも悪くはなかった。
・自分は彼らの優しさを裏切って、今を生きている。

***

・令和においては、別に間違った選択をしたとは思っていない。後ろ髪をひかれる気持ちもない。
・だが時々、郷愁めいたものに襲われる。平成であの環境を生きていたとしたら、幸せだったしれない。

・まぁ、上司でもなんでもなく仕事が出来ない人の行き着く先みたいな職種をやっていた、自分に「死ね」と言ってきたあの老害だけは今でも美化した思い出として振り返ることは出来ない。

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