見出し画像

晴れの日も雨の日も #150 共に生きる

①つい先日、知人と一献傾けた。和やかに雑談をしているうち、部下の話をどこまで聞いたらいいのだろうという話が出た。
聞いてやっても解決できないこともあるし、変に聞いてパンドラの箱を開けるようなことになっても困る、というわけだ。
この話は、
上司と部下は問題を解決する人/して貰う人、という関係なのか、
上司は部下から話を聞いたら、その解決を背負わないといけないのか、
本来その問題は部下の問題だったのではないのか、という話に発展した。

その結果、彼は、上司と部下で共に考える、という気づきを得られた。

共に考えて、うまく解決策が見つかれば、それを部下が実行する際には自分の考えとして主体的に取り組むことにつながる。
あるいは上司の側でできることが見つかれば、自分がそれをやればいい。
もし今は解決策がない、ということで両者の共通理解ができるならそれもまた一つの答であり、相手の納得性も得られる。

CTIというコーチングモデルでは、双方が積極的に協力しあいながら関係性を構築していくコーアクティブという考え方を提唱されている。CTIは私が学んだコーチングスクールではないのだが、私はこの考え方に強く共鳴している。
共に考える。共につくる。共に生きる。
そういうスタイルが素晴らしくいいと思う。


②心友から共通の知人に関するメールが届いた。とっても頑張りやさんで、意欲も高い。心根も純粋・高潔で、私はその人の生きる姿勢に惹かれている。
が、自分で/自分が頑張ろうとしすぎて、時々空回りしたり、無理が続かなくなったりする。心友からのメールには、最近あったその種エピソードとその人への指導状況が書かれていた。

なんとなく情景が思い浮かぶ。
かすかに仄聞しているその人の来し方等をあわせ考えているうちに、ずっと長い間一人で頑張って生きてこられたんだろうなあ、という思いが浮上した。

決して協調性がないわけではない。コミュニケーション力も十分だ。
が、「自分が頑張る」ことでここまでやってこられた結果、「自分が頑張る」ことにとらわれすぎており、視野が狭くなりがちなのではないか。たぶんこれまで誰かに頼るとか甘えるとかということがあまり許されない環境におられたと拝察しており、そういうことが遠因として作用しているような気がしている。


③ 上記①②はほとんど同じタイミングで私の前に出現した。この2つはもちろん、何の関係もない全く別の話なのだが、私の中では「共に生きる」という言葉でつながった。まるでコインの裏表のように、この2つは一体のもののように私には映った。
さらには、「共に考える」は「それぞれが考えた結果を持ち寄る」というのとは少し異なる。同じように、「共に生きる」も「生活を共にする」というのとは少し景色が違うことにも思い至った。

そんなことを考えているうちに気がついた。
②の「自分が頑張る」は私そのものじゃないか。
コーチングでは、クライアントと「共に考える」ことを指向し、相手にもそういう気づきを得てほしいと思っているが、理性の衣を脱ぎ捨て素の自分に戻るところではどうか。「自分が頑張る」に走ってないか。下手したら「一人で頑張る」になっていないか。「共に生きる」がうまくいかないのは、他でもない自分がそういう状態を引き起こしているだけなのだ。人のことより、自分の頭の上にハエが飛んでいた。


④誰と何を共有して生きていくか、というのはとても重要な問題だ。結局、カネより仕事よりこれが人生を決定づけるのではという気がしている。さらには、どうやって、とか、どの程度深く、といった切り口もある。

150回という節目の回。「共に生きる」という重要テーマを考える好機になったのは、これも何かのご縁なのだと感謝している。

東京ははや桜の開花宣言という。拙宅近所の一番バッターはこれ。まだまだこれからだ。

今日も最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました♬ 長井 克之

コーチングのご相談などご連絡等はこちらに→nagaib61s83@gmail.com
(グチ、やり場のない思いやイライラ、悩みなどもどうぞお気軽にメール
 下さい。しっかり受け止めます。皆様の「心のゴミ箱」としてご利用
 頂き、「心のオアシス」を感じて頂ければ誠に幸甚です。)

<予告>
#151 岡本太郎と「後味」
#152 気づきのその先に
#153 力雑感

(つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?