見出し画像

晴れの日も雨の日も#173 「自由」シリーズ完結編 自律・自立・自由・自主

おでん屋の姐さんの引退話から、依存という難しいテーマに話が飛び、前号では自律と自立というふたつの「じりつ」に触れた。

自律:自らを律する。気ままに走らない。自分の欲望をコントロールする。
自立:ひとりだちする。自分のことは自分でやる、ケツを拭く。

そんな感じだろうか。なんだか大人の匂いがする。
そして、自律して自立することが、自分の思い通りに人生を選択するということの第一歩なのだと思う。


1年半ほど前、自由ってなんだろうという話を深める機会があった。
サラリーマンで組織の中にいると、自由でいられないのか、という話が出発点。
人から指図されずに、自分で決めたい。右に行きたいのに、組織の力学で左に行かされるのは、ホントつまらん。そんな話も出た。

そういう意味では、下っ端だから自由じゃないのか。一番トップになれば、上からの指示はなくなって、なんでも自分の自由にできるのだろうか。
いやいや、ひょっとしたら一番上に立っても、いろんなしがらみ等があって、なんでもかんでも思い通り、というふうには実はいかないのじゃないか。立ったことがないからしらんけど😂


少し前のNHK朝ドラ「らんまん」で「自由」が番組の大きなテーマになった。万太郎が土佐から東京に出てくるあたりだ。土佐有数の由緒ある造り酒屋「峰屋」の重さや江戸時代の旧弊を振り払うようにして、万太郎、綾、竹雄が自らの人生を自らの意思で歩み始める。自由民権運動やジョン万次郎との出会いもあって、万太郎は自由という言葉に背中を押されて植物学の道に進む。

束縛からの解放。まさに「自由」だ。
が、現代は、自由と勝手を履き違えている輩も多いように思う。「オレの勝手やろ」と簡単にクチにするヤツほど自分本位で無責任だったりする。
自由には責任も伴うし、何をしてもいいという訳ではない。自由には自律・自立が自ずとセットなのだと思う。

万太郎は、自ら植物学を選択したのはいいが、生活面では竹雄に、経済面では峰屋に頼りきっている。その分際で牛鍋が食いたいという。これは自立しているといえるのか。したい放題、勝手放題をしているだけ、というのとほとんど紙一重のような気もする。
もっとも、組織の中にズルズルと身を置きながら、やりたいことも見つからず、でも自由になりたいとブツブツ言っているよりは、万太郎のほうがよっぽど輝いているとは思うが。そしてそんな万太郎も今朝の放送では少し感じが変わってきそうだが。


随処作主立処皆真(ずいしょにしゅとなれば たつところみなしんなり)という禅の言葉がある。自分の持ち場立場で精一杯つとめれば、どこにいても真実のいのちに巡り会えるという意味だ。平たく言えば、置かれた場所で咲きましょう、だろう。
これは自主と自由ということの関係を端的に表していると思う。

組織に属し、権限もない下っ端でも、自らの意思で主体的に仕事をすることはできる。それが今日を存分に生きていくことであり、自分を解放して自由になる道なのだと思う。
それが好きなことかどうかということは大事な問題であり、好きじゃない時には、ひとつ自分の腹を据える、という難儀なステップが必要だが。


また、好きなことを見つけて一生懸命それに打ち込む、というのは、本来素晴らしいことなのだが、困ったことにしばしば執着に様変わりする。ダンコたる決意と執着の差は紙一重だ。執着は依存と同様に「しがみつく」になりがちで、軽やかに自由に生きるというのとは、少々景色が異なる。


どこまでいっても、この世に身をおいている限り、全く制約のない場所は無いような気もする。逆に言えば、それもとらえかた次第なのだろう。
自ら選択して主体的に軽やかに生きることが「自由」でステキな生き方なのだと思う。
そこのあなたも、まだまだ自由になれますよ?

ヒマチンの平日に宝塚最高峰岩原山(573m)に一人登る。師匠に教わったYAMAP大活躍。

今日も最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました♬ 長井 克之

コーチングのご相談などご連絡等はこちらに→nagaib61s83@gmail.com
(グチ、やり場のない思いやイライラ、悩みなどもどうぞお気軽にメール
 下さい。しっかり受け止めます。皆様の「心のゴミ箱」としてご利用
 頂き、「心のオアシス」を感じて頂ければ誠に幸甚です。)

<予告>
#174 【創作SS】ある日の定時後
#175 おでん屋にて#11 沼からの脱出
#176 オレもツライねん
(つづく)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?