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晴れの日も雨の日も#152 気づきのその先に

温泉につかっていて、「ないものねだり」という言葉がふっと頭に浮かんだ。ぬるめの露天風呂で長湯をしながらいろいろ考えが広がった。

まず自分自身について。

あれがよくない、ここがダメだと拾い上げるクセ。
自分のいいところと悪い所を切り分けてとらえたがるクセ。
おまけにそこまでで満足して足りない所を改善する努力が不十分。そういうのを世間では「ないものねだり」というんやろ、と思った。

向上心が強いのは悪いことではないが、「ないもの」をわざわざ一生懸命探しにいってもしょうがない。


さらには、自分についてだけではなく、人との関係性にも思いが及んだ。これも「ないものねだり」をすることが結構ある。
たとえば、今ある関係性に満足できずに、もうちょっと何とかならんか、と思ったりする。特に昔より関係性が後退してると感じたりすると、ますますそう思う。昔はもっとわかりあえてたのに、などという思いから、なんとかして失くしたものを取り返したいような思いに強くとらわれる。

しかし、時間が経つ中で私にしても相手にしてもそれぞれ自身変わってゆく。お互いの間にもいろいろ積み重なっていくものがある。当然関係性もずっと同じではない。

結局今のあるがままをそのまま受け止めるしか無いのだ。過去にどんなにスバラシイ時間があったとしても、それを変わらずに今も求めることに無理があるのだ。

さらには、「過去のスバラシイ時間」と言ったって、往時の記憶そのものが美化されたり変質している可能性も少なくない。記憶違いということだって大いにありうる。

困ったことにこの「相手へのないものねだり」、結構いろんな人に思ったりしている。相手のことなんか、自分のことよりもっと思い通りにならないのに。。
アホやなあ。そんなことわかってるはずなのに。
一度通った道に何度も迷い込んでる自分に気が付き、苦笑いする思いになった。

「ない」ものをわざわざ拾いに行って、「ないものねだり」をする。で、満足感が得られない。みずからオモロない方に自分を持っていっているのだ。その反対に「ある」ものをちゃんと見て、それがそこに「ある」ことを喜び感謝する。そうすることが幸せに生きる近道なのだ。

よしよしいいことに気づいたぞ。これでまた「今日の感謝」を書けるぞ、noteの記事にもなるぞと思った。


で、翌朝。巡礼街道を歩いている時にこのことが再び頭をよぎり、今度は逆に「ん?」と思った。いろんな人に「ないものねだり」をしてるなあ、というところまではその通り。だが、いろんな人を十把一絡げにして「ないものねだり」という言葉で片付けようとしていることに違和感を覚えた。

それぞれの人と私との関係性って全部違うんとちゃうの。
これまでの経緯も今の状況も違う。距離感も違うし、顔を合わす頻度や共有しているものも違う。それを単純に「ないものねだりはやめよう」だけで事足れりとするのは不十分ちゃうの。そんなことに思い至った。
ないものねだりをしてもしょうがないでしょ、というところまでは共通解なのだが、その解の色合いが少しづつ異なり、で、どうするの、というところまで押し進めてみると、それぞれ別の景色が見えてくる。

今回感じた「あれ?」っていう違和感って結構大事だ。
何かに気づいた時に、そうか!と思うのだが、安易にそれに走りすぎない。そういう注意深さ。違和感を流さない感受性。そういうことの大事さを思った。

なるほどなあ。気づいた!と思っている時には危うさもあるのかもしれない。わかったつもりになった時がアブナイのだ。大事に扱わんといかんなあという気づきを得た。

で、ここにもまた危うさはないか???

しらんけど。


鳥唐揚げ✕筑前煮✕キャベツとツナのサラダ=うまいやんか!

今日も最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました♬ 長井 克之

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<予告>
#153 力雑感
#154 痛いの痛いの飛んでいけ〜
#155 プロポーズ大作戦

(つづく)

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