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「晴れの日も雨の日も」#125 目線はダイジョーブ?

雨上がりの早朝の巡礼街道。地面と靴が奏でる音がいつもと少し違う。夜が明けてきた。まだ厚めに残る雲が朝日に照らされ、ピンクに染まる。今日もいい日になりそうだ。
と思って帰宅したら、細君と一揉め。どこがいい日の始まりや。。。。


さて、拙noteは、私自身がより上質に生きていくために、気づいたことや感じたことを書いている。
記事を書こうと意識すると、私自身の心の窓が開く効果がある。結果、いろんな気付きが得られる。ここに書いていることはそういう類で、私が実践しているということではない。自らの指針や戒めである。

が、悟ったようなことをエラそうに書きやがって、という映り方がしていないかふと気になった。
こんなこと知ってるで〜、スゴイやろ〜という上から目線になっていないか、という懸念だ。

拙noteの読者はそう多くない。note界で知り合い、お付き合いをさせて頂いている少数の略固定メンバーと、昔からのリアルでの知り合いで、いずれも「ながいらしいなあ」と許容して頂いていると勝手に思っている。一方で、拙noteには、コーチングという生業を推し進めていく上での広告塔という側面もある。拙noteが私との初めての接点、という方も出てきうる。そういう方にとって、理屈だけを滔々と言っているように見えないか、ということを少々気にしている。


恥ずかしながら、私はもともと若い頃自他ともに認める説教好きだった。自己肯定感が強すぎる、というか、変な自信や天狗になっているところがあるのだろう。
学生時代も会社員時代も、後輩後進に対して、良く言えば面倒見がいい、悪く言えば、お節介に過ぎたり自分の価値観を押し付けたりしていた。自分が正しいことを言っている、みたいな意識や、教えてやろうという感覚が根っこにあった。

コーチングは相手と対等の関係を築き、相手の価値観・考えを尊重する考え方にたっている。これを学んで、私は少し変わったつもりだったが、はてさて実際はどうなのか。

そういう意味では、記事がどうか、ということの以前に、そもそも今現在の私の姿勢がどうか、ということの方が根本問題だ。
根本姿勢が間違ってれば、当然それは記事にも出る。記事だけ上手にお化粧しても、本質の部分の目線がおかしければ、何の意味もない。

#116「腕は上がったのか」、や#120「ながいコーチングワールド」で少し記載したが、コーチングについては、いくつかテッパンの問いが自分の中でできてきた。「問いの意図」をもって会話するようになってきた。
それはいい面もあるが、逆にそれが強すぎると「気づきを与えてやろう」みたいな感じになっていないか。これでは既に「上から目線」だ。

「気づき」は私が与えるものではなく、相手が自ら得るものだ。
真っ白な心で寄り添う、という姿勢からも離れている。
記事がどう、文章がどう、という前に、「正しい」を手放せているのか、自分が自分の価値観真理感を持つのは勝手だが、「教えてやろう」みたいなことを思っていないか、注意深く自分を振り返ることが必要だ。

自分が学んできたことをもう一度手放すことが理想なのだろう。守破離の考え方だ。これはしかしハイレベルだ。正直、今の私ではできそうな気がしないなあ。。


私はサラリーマンからスピンアウトした人間であり、立身出世を遂げて万々歳・大成功のサラリーマン人生を卒業した人間ではない。
むしろ、今得ているいろんな気づきを現役時代に手にしていたら、部下や職場のメンバーたちともっと違う関係を築けたのでは、と反省している身だ。その気付きがあれば「クサイ・クドイ・クセあり」の三重クと呼ばれていい気になっていた勘違い野郎にはならなかっただろう。

自分は無力である。相手のことについて自分にできることは殆ど無いに等しい。自分のことも実はコントロールできないことの方が多い。そういう認識が大事なのだと思う。精進を続けていきたい。

クリスマスイブ前日。初雪初氷。あ〜さぶ。そういやめっちゃ寒がりの知人がいたが元気かな。

今日も最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました♬ 長井 克之  
コーチングのご相談などご連絡等はこちらに→nagaib61s83@gmail.com

<予告>
#126 長井家激動の2022年。こんな年ある〜〜?
#127  2023年 年頭抱負
#128 doingとbeing

(続く)

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