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「晴れの日も雨の日も」#35 正しいから距離を置く

誰しも「正しい」を追い求めている。
しかし、本当に正しいことは何なのか?
さらには、正解は本当にあるのか?
そんなことを思うようになった。

30歳前後の頃、一回り年上の師匠がいた。いわく
「真っ白と真っ黒は誰でも見分けがつく。だが現実のほとんどはその間のグレー。それを、白か黒かジャッジをする。場合によっては、いや今はジャッジしないという判断もありうる。あるいは、白黒を判断するために必要な要素を明らかにし、まずそれを先に求めるということもある。これがマネージャーの仕事だ。」
なるほど!! 目から鱗が落ちたような思いをしたことをまざまざと覚えている。そして、その後自分が責任ある立場につき、その責任があがっていくにつれ、この言葉を実践しようとしてきた。

が、親会社の定年退職と時を同じくしてコーチングを学び始めて、私の考えは少し変わってきた。
人の可能性を信じること。
レッテルを貼ったり固定観念でものや人を見ることの弊害。

こうしたことへの気づきに近づいた私は、「正しい」と声高に言うことの嘘っぽさを何となく感じるようになってきた。

だれが「正しい」か間違っているかを決めるの?
どういう基準で「正しい」か間違っているかを決めるの?
私にとっての「正しい」はあなたにとっても正しい?
今日の「正しい」は明日も正しい?

そんなことを思う。

また、「正しい」か「間違っている」かで切り捨てられた間のところに実は大事なもの、本当のものが落ちてたりするのではとも思うようになった。
白っぽいグレーは白っぽいグレーであり白ではない。それを半ば無理やり「白」と位置付けることで、見落としたり歪ませてしまったものがあるのではないか。

スピード時代の現代ではテキパキ処理を進めるために、より正しいと思える判断が必要だ。だから、マネージャーは責任を持ってそういう判断をしろ、できるようになれ、というのが師匠の教えだ。確かにビジネスではそういうことが求められる。それに向けた訓練も必要だ。が、そんな単純な話だけで全てを割り切ることはどうなのか?という思いが今の私の中にある。

大体、自分が見えている景色なんて、自分の視野の中だけでしかない。
そして世界はそれが全てではない。見えてないことがたくさんある中で判断をしたり選択をしたりしている訳だ。
そんな状況で絶対正解が得られると考える方がおかしいと気づいたのだ。

たとえば、わからないはわからないで置いておく。早く答えをという焦りを我慢する。右を選択するという事は左から遠ざかるという反作用もよく理解する。そんなことが必要な気がする。
特にコーチングと言う人間そのものと向き合うようなことにおいては、ことさらそう思う。人間という存在は正しいか正しくないかという0/1の二極で分類できるほど単純ではない。加えて、相手のしゃべっていることが実は本当の思いや願望とずれていることもありうる。
安直に「正しい」に走るのにはいろんな危険がある。「正しい」という言葉は強い響きを持っており、それゆえに危険が潜んでいるのだ。

「マスク警察」なんて話もその最たるもの。
やっている人は、自分は正しいと思っている。正義を背負っているという思いが、自分の背中を強く押し、相手の(その人からは)間違い(と見えること)を激しく攻撃する。
SNSやネット社会で匿名性が高まれば、さらに加速する。そして、同じ「正しい」がツルんでどんどんエスカレートする。
アブナイアブナイ。

禍福は糾える縄の如しという言葉がある。昔の人はいいことを言ったものだ。
正しいと間違っているは実は表裏一体で、その時々や場面場面で見せる顔が変わる。「オレは100%正しい」なんて声高にいう事ほど危ういように思う。

乱暴な物言いのようだが、世の中のことは生き死に以外は実はどっちでもいいことばっかり、だと思う。
どうしようか迷っている、というのは、要するにどっちでもいいから迷っているのだ。
失敗したって命さえあれば何とかなる。Never too late。そのぐらいゆったりユルク構えていきたいと思う。

青空の下でほころび始めた紅梅

庭の梅が綻んできた。春ももうすぐそこだ。

今日も最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました♬ 長井 克之

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<予告>
#36 「好き」ということ
#37 かっぺいものがたり 元気の秘密
#38 人生が二度あれば
#39 諸先輩の教え
#40 ツナガルって?

(続く)


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