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「晴れの日も雨の日も」#18臨時投稿 「ある晴れた夏の朝」を読んで

中学校で国語の教員をやっている娘から本を紹介された。娘には感想文を提出済みだが、名著なので、noteにも下記の通り投稿することとした。

広島・長崎への原爆投下は是か非か。本書はこのテーマについてアメリカの高校生たちが繰り広げるディベートの物語である。
落とされた側の日本からすれば当然容認できない。一方、落とした側のアメリカにすれば、戦争を終結させてアメリカが勝利を得るための必要かつ或いは妥当な手段。アメリカでは原爆投下は是として公教育がなされているということも私は既知だ。この二つの対立軸をディベートというアメリカ文化がどう扱うのか、興味を持ちながらも気軽に読み始めた。

が、そんな単純な話ではなかった。

まず、肯定派から最初に提起されるのが「そもそも真珠湾攻撃という卑怯な奇襲をしかけてきた日本が悪い」という論点。
アメリカ側は当然そう言うだろう。しかし、開戦に至る経緯はもう少し複雑だ。既に半藤一利さん等が歴史的事実として明らかにしている。日本側の通知が遅れた事情(日本側がどんくさいのだが)、さらにアメリカも日本が戦争をしかけてくることを待っていたフシがあることなどが示され、真珠湾の報復として原爆を投下したという理屈は無理があるという反論がなされる。

さらに言えば、日本は幕末に不平等条約により開国した国だ。小国のハンデを乗り越えて発展していくためには、欧米列強と摩擦を起こしながらでも前進を図る必要があった。そして、石油等の資源の喉口を押えられた日本としては、窮鼠猫を嚙む思いでアメリカと戦わざるを得なくなった。
そもそも戦争でも個人のケンカでも、双方にそれなりに言い分はある。どっちかの言い分が100%正しいなんてことはありえない。この視座では、原爆投下の是非を語れないのだ。

次は、日本は本当に被害者なのかという議論。
日本軍は中国やアジアで本当に一点の罪もない一般市民を大量虐殺してきた。また、悪逆非道ヒトラーの同盟国でもあったという視点。国家総動員法によれば日本国民は総員兵士もしくはその一味であり、いわば原爆を落とされて当然だったのではないかという論が展開される。
しかし、これも無理がある。確かに日本軍のやってきたことには許されざる蛮行が多々あるのも事実だ。それは国家としてお詫びもせねばならないし、我々日本国民としても恥じねばならないだろう。
しかし、だからといって原爆投下という暴挙が正当化されることにはならない。これは別件逮捕みたいな話だ。

そして、トルーマンが原爆投下を決断した本当の理由、ウラの真相へと考察が進み、そこに人種差別の問題が絡んでくる。このあたりから、本書の扱っているテーマはぐっと深くなってくる。ユダヤ人、黒人、戦争前の日本人への差別が論じられ、原爆投下の根本は人種差別だという指摘がなされる。敗戦がほぼ見えていた時点での原爆投下は弱い者いじめでしかないという意見も出される。

今、アメリカでは、トランプ前大統領が人種差別のパンドラの箱を開け、「分断」が一気に表面化している。
もともとアメリカは開拓者が先住民を追いやって作った国であり、黒人問題を始めとして、長い時間をかけて、いろんな民族の融和に取り組んできた。いや、「きた」という過去形ではなく、今日現在も苦しみながら民主主義を守るべく、悪戦苦闘している。悪戦苦闘というのは、白人保守派の間に根強い人種差別と何とか折り合いをつけるべく取り組んでいるということを指す。これは民主主義の旗手としてアメリカが乗り越えなくてはならない大命題なのだ。であるのに、当時最高権力者のトランプは差別主義発言を繰り返し、差別組織を擁護する姿勢を見せて、分断を増長させた。
さらには米中の分断も激化する一方だ。今、民主主義は危機にあるということもできる。
そして、この「分断」は日本の中にだってある。昔からの部落問題だけではなく、貧富その他の階級社会が広がりを見せている。自己責任の名のもと、弱者はどんどん追い詰められている。そしてそういう弱者の暴発がテロのような事件を頻発させ始めている。

一人一人が住みやすい社会をどうやってみんなで作っていくか、というのは古今東西永遠の課題だが、資本主義の歪みが深刻化し価値観が多様化する中、ますますその重要性と困難さが増しているように思う。

本書では終盤のひとつのクライマックスとして広島の慰霊碑の真の意図が明らかにされる。
We Japaneseでもなく、You AmericanでもなくAll of usとしてこの過ちを繰り返すまい。「この過ち」とは単に原爆投下にとどまらないだろう。広く戦争一般、さらにはその元となりうる上記の「分断」まで含めて考えることができるのではないか。

我々みんな一人一人が主体となって、かつ連携して平和を堅守維持していく。そのためにはそれぞれ肌の色や言語・文化の違いを多様性のひとつとして受け入れ、認め合い、そして絆を作っていく。

そのためにはコミュニケーションが必要かつ重要であることは論を待たない。お互いが独立しつつ相手のことも尊重し合うディベートの文化はわが国の将来を担うZ世代にもぜひ学んでほしいところである。

本書に戻ると、最終ステージで、主人公のメイがラストバッターの8番ではなく7番目に登場するという時点で、最後に何かあるなとは思ったが、なるほど、最後はこういう結末に持って行ったか。やるなあ、小手鞠るいさん。

中高生はもちろん、幅広い方々に一読して頂きたい名著である。


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