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「晴れの日も雨の日も」 #113 共にある

拙note#107「放下着」でお手本に出会った話を書いた。以来、師匠としてずっと私の心のなかにこの人がある。

この人は苦労人だ。長い間の苦労を通じて、ここに書いたような姿勢を身につけられたのだと理解している。
この人のあり方を何度も心のなかで反芻しているうちに、この人はその苦労と「共にある」という生き方をされていることに気がついた。

この人の抱えているツラさは、それは大変なものだ。
それゆえか、なんだこんな苦労!なんて無用なファイトオーバーをしようとしない。でも、どうしようもないからといってそれに負けるわけでもなく、もちろん希望を失ったりもしない。

そのツライ状況をまずそのまま認め受け入れる。
そしてそれと共にありながら、自分のできることやりたいことを見つけて、自分の幸せを求めて生きていく。
そういうスタイルをとられている。
そりゃスゴイ人になるはずや、と思う。


ここまで私は、表向きは順風満帆に見える足跡をたどってきた。が、幼少期からある一時期まではうっとうしいものやコンプレックスをいっぱい抱えていて、どぶ板を踏むようにして、育った。自分の中の深いところに鬱屈や屈折しているものがある。
そうでなければ20代で40後半に間違われるような極端なフケ顔になったりしない。
もっともそのおかげで、我慢への耐性は高いし、鋼鉄のメンタルを持つに至っている。

私のスタイルは師匠とは違いファイトオーバー至上主義だ。克服好きなのは名前が由来しているのかもしれない。
しかし最近、師匠のこの姿を見て、「共にある」という言葉が私の脳裏に強く刻み込まれた。

私はどうも自分の柔弱なところを認めたくないようだ。
たとえば、#102「孤独とつきあう」に書いたサミシガリの一面。寂しければ寂しいと素直に言えばいいのに、言えない。で、それに打ち勝とうとしたり、なかったものとして無視しようとしたりする。
そういう努力が徒労に終わると、サミシサが余計につのったりするのに。

無理なことや極端なことをやろうとしているのだ。
自分の奥深いところにそういうややこしいものがあって、いろいろなところに影響していることに段々気が付き始めた。

最初はそれを認めたくなかった。
次は、なにくそ負けるか、と思った。
で、最後に、師匠の「共にある」を思うようになった。

自分の中にそういう感情があること、弱さやカッコ悪さ、情けないところがあることをまず認め、受け入れること。
そうして無理をせずにそれと共存して、それなりの生き方を選択していくこと。

何が何でも抑え込もうとしたり、見ないようにしようとしたりすると、かえっておかしくなる。我慢して飲み込んで知らん顔をしていても、そういうコマッタものはなくなってしまいはしない。

あるがまま、と言っても良いだろう。そうした師匠の姿勢の方が素直で、幸せに、心豊かに生きられると思うようになった。またまた師匠にお世話になった。感謝感謝である。


「共にある」という意味では、「クライアントと共にある」というのはコーチングの重要な考え方だ。
先日届いたメルマガには、コーチングフローに則って形通りのコーチングをやっていると、まとまったコーチングがうまく出来ているように見えることがあるが、一番大事なこの考え方がなければ、それはいいコーチングとは言えない、という趣旨のことが書いてあった。
どこまでも相手のために、相手のことをしっかり見て、相手の本当の思いを探っていく、ということなのだと理解している。

共存共栄なんて言葉もある。

共にあるというのは奥深い考え方なのだと思う。

ちょうど去年の今頃、京都亀岡近傍のゴルフ場にて雲海を望む

今日も最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました♬ 長井 克之
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<予告>
#114 11月は命日月間
#115 どっちやねん
#116 やわらかい心

(続く)

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