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「晴れの日も雨の日も」#119 三つ子の魂百まで。か?

なんか一気に冬本番。あ〜さぶ。

日本全国を彩った紅葉もいよいよ終盤だ。
拙宅の近くでも、巡礼街道の輝くような大いちょう、宝塚長尾トンネル前の燃えるようなもみじ、西宮夙川の真っ赤なプロムナード、などなど、本当に美しかった。常夏の国インドネシアではこうはいかない。四季のある日本に生まれて良かったと心から思う。


先日こうした紅葉を見ながら歩いていると、

♬秋の夕日に てる山もみじ 
 こいもうすいも かずある中に 
 松をいろどる かえでやつたは 
 山のふもとの すそもよう 

文部省唱歌 秋の夕日に

と懐かしいメロディが突然私の頭の中で鳴り始めた。それも輪唱付きで。
さすがに二番は不明だが、一番の歌詞は最後までスラスラと出てきた。
小学校の時に習った曲だろう。何十年ぶりだ?

この歌に何か特別の思い出や思い入れがあるわけではない。
なのに、何の拍子かいきなり思い出し、しかもしっかり歌詞を覚えていることに少々驚かされた。

私の人生は中学から覚醒し始めた。
小学校の時のことはほとんど覚えていない。
覚えているのは何年のときだったか、サイネンクンと学期末のお楽しみ会で「8時だよ全員集合!」のマネをして「チョットだけよ」をやったことぐらいだ。それ以外、友達の名前も顔もあまり出てこない。

なのに、なんの因果かこの歌が私の中にバッチリ鮮明に残っていた。音楽会か何かでよっぽど繰り返し練習したのか?うーん、覚えてないなあ。覚えてないけど体の中に染み込んでいる、ということか。

なんでやろ???と思っているうちに、三つ子の魂百までという言葉に連想が飛んだ。そうか、小さい頃に身につけたものは忘れない、ということか、なるほど。


と、いったん納得したのだが、さらに歩き続けるうちに、いや、そもそも三つ子の魂百まで、ってホンマか?ということに思いがたどりついた。

たとえば箸の使い方など、確かに幼少期に身につけたことを忘れずにずっとキープしている、ということもある。自転車の乗り方などもその部類だろう。
だけど人間って成長するんとちゃうんか?
どんどん変わっていく/いけるんとちゃうんか?
たとえば外的な作用によって知らん内に変わってしまうこともあれば、自ら変化を選択することもできるんとちゃうんか?と思い始めたのだ。

で、家についてからネットでこの言葉を検索すると、
「3歳頃までに人格や性格は形成され、100歳までそれは変わらない。ということを意味することわざ」
とある。

こう言われると、えー、ホンマかー?と私は思ってしまう。

たとえば自分のこと。
幼少期にオフクロの健康問題で、丹波の親戚に数ヶ月?半年?程度預けられていたことがある。
昭和30年代の田舎のことで、行商のさかな屋が家々を回って売りに来ていたらしい。で、3歳前後の私はそのさかな屋の兄ちゃんと対等に口をきいていたという。
なるほど、その頃からよくしゃべる子だったのだろう。それは今も変わっていない。

しかし、その頃、さらには小学校までの私は、基本的には気弱で引っ込み思案の子で、今のようなガチャガチャした人間ではなかった。脱パン党首になるなんて想像もつかない。
この変わりようは、その後ガラスの仮面をかぶり続けているうちに、それが自分の顔と一体化してしまったということが大きい(#10 学ぶとは)。
さらにコーチングを学び始めてからは一段変貌をとげ、自ら変化を選択するようになってきた。三つ子の魂云々どころか、還暦を過ぎてからだって変われるのだ。


いくつになっても人間は変われるのだ。

と、話は「秋の夕日に」から大きく脱線して、私はこのことわざには違和感を感じるなあ、ということで本日は筆を置くこととしたい。

12月8日、今晩は満月。きれいに見えるかな

今日も最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました♬ 長井 克之コーチングのご相談などご連絡等はこちらに→nagaib61s83@gmail.com

<予告>
#120 ながいコーチングワールド
#121 今日の感謝
#122 見えないものを見る

(続く)


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