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無名な『あなた』を多くの人に届ける方法

最近,岩佐文夫さんが書かれた『自分を語る記事が読まれない理由』というnoteが面白かった。

約1年間noteを書いてみて,
岩佐さんの分析は思い当たる節が数多くある


今日のnoteはそんな彼の記事の書評なので,
よければ先に覗いてみてほしいです。

◆その記事がこちら↓↓↓


僕らは『個人』と『情報』を混同しがち

一億総発信者時代。

僕らは常に「どこか」で「何か」を発信している。

おすすめのカフェを紹介する人,ゲームしてる様子を中継する人,自宅のルームツアーをする人。位置情報を晒す人もいるらしい。

しかし,僕らが発信するモノはいつも一括りに『情報』とされる。

確かに,コンピューター上では0と1の「情報」の累積なのだが,私たちの目や頭は別に計算機じゃない。したがって,どこか無意識に『情報』に色を付けているのだと思う。


例えば,人気女優のVlogと素人女性YouTuberのVlogでは求められていることが違うはずだ。両者が同じ街で撮影したとしても,人気女優には「美しさ」という【視覚情報】が求められ,無名の人には「カフェの様子」や「地図では分かりづらい位置関係」といった【参考情報】が求められる。彼女たちの服や化粧や話し方はここでは重要じゃない。

同じ風景を撮っているのに明らかな差だ。


ユニクロのモデルは全員綺麗でスラっとした体型だが,別に私は彼女らに一才の興味が湧かない。それは性的なものに限らず,友好的なものまでだ。彼女らの着こなしを見ているのではなく服の様子ばかりを見ている。

この時,ユニクロのモデルたちに求められていることは『情報』であって,『個人』ではない。


ユニクロの例を出すと僕らは妙に納得できる。

世の中には明確な『個人』と『情報』の差があることをだ。


『個人』は情報の裏で脳裏に刷り込まれる

さて,岩佐さんの記事を一言でまとめると下記だ。

『自分語り』をするのではなく,『自分の好きな【情報】』を伝える方が,結果として『自分』を伝えることができる。

さて,先ほどのユニクロの例に戻る。

僕はハッキリと「モデルの彼女らに興味は湧かない」と言った。確かにそう言った。疑いたければサッと上にスクロールしてほしい。


しかし,しかしだ。


なぜ私は,モデルの彼女たちが
「全員綺麗でスラっとした体型」だと分かっているのか?


モデルという先入観はあるものの,今は多様性の時代だ。

最近では「ぽっちゃりモデル」の需要も多く,世界に展開するユニクロなら起用していても良いはずじゃないか。


では,Vlogの話ではどうか。

カフェや街の様子を教えてくれる【参考情報】を気にしていたはずなのに,自然と発信者の声や特徴を覚えている。別に覚える必要はないのに,どこか無意識に理解してしまっている。


どこか違和感を覚えたので,他の例も探してみた。

「お天気お姉さん」とかが分かりやすい。私たちが求めているのは単に【気象情報】なはずなのに,どこかで雰囲気や落ち着き具合,見た目まで要求している。多分だけど,見た目が美しい人の届ける気象情報の方が受け入れられるのだろう。


『情報』を取るか『個人』を取るかではなく,『情報』を取れば『個人』も取れる

さて,一億総発信者時代にどう戦うべきか。

ネットサービスをいっぱい創られている「けんすう」さんという方が「発信の戦い方」をnoteに綴っている。

◆その記事がこちら↓↓↓


彼の記事を一言で要約すると,

発信には『情報』,『意見』,『日記』の3種類があり,何者でもない人は左から順に発信するとフォローされやすいだろう。理由は「誰もあなた【自身】には興味がないから」だ。


この話を聞いて以降,彼の主張を取り入れつつnoteを頑張っているがやはり苦しくなる瞬間がある。それは思っている以上に「情報」を優先することことが人間の欲と反しているからだ。

我々は一口に「語りたい」と言っても,実際には「自分語り」であって「モノを語る」わけではない。これは私も同じだ。


しかし,今回の岩佐さんの記事を読んで妙に納得した。それは「『情報』には私の想像以上に『わたし』が含まれていること」である。


10秒だけ余談をさせてほしい。

昨日,私はハンガリーでの10ヶ月間の留学生活が始まった。汗で少し濡れた手で握りしめるiPhoneを頼りに,僕はたくさんの『情報』を探す。英語もそこまで流暢じゃないので,つい日本語で検索してしまうが。

しかし,幸いなことにハンガリーへ飛んだ先人たちがブログにあれやこれやをまとめてくれている。そこで僕は『情報』を集めているのだが,気付けばその情報に付着した『発信者』まで知ってしまっている。


なぜだ,なぜなんだ!?(笑)


私が求めているのは【情報】だ。本当に情報だけだ。

けれど,なぜかその人自身まで少し知っている。


ちなみに,1人おすすめのハンガリーに関するYouTuberさんがいるのでコソッとリンクを貼っておく。いつか彼女が見つけてくれると嬉しいな。

◆動画はこちら↓↓↓


さて,話を戻す。


「けんすう」さんの主張だけを聞くと,一瞬私たちは諦めてしまう。「やっぱり私には発信が向いていないのかな・・・」と。

しかし,岩佐さんのnoteを読むと「けんすう」さんの真意が読めてくる。結局,私たちは情報の裏でひっそりとその人自身のことも認識している。


考えてみればそりゃそうだ。

新しい友達と繋がる時,いきなりその人自身で盛り上がることはないだろう。好きなバンドとか出身とか友人関係とか,とにかく私たちは共通点を探すだろう。むしろ,それが見つからなかった人とは仲良くならないのではないだろうか?


SNSも発信も同じだ。

発信者との共通点があってはじめて僕らはその人を受け入れる。


あまり時間を奪いすぎてもあれなので,
今日のnoteはここまでにしておく。


書評として始まったはずなのに,気付けば僕が「ハンガリーへ留学している」ことを知っているし,ふとプロフィールを覗けば「この文章を書いているのが19歳の大学生だ」ということも知るだろう。もっと調べると「企業に講演をしている変わった人」であることまで知るかもしれない。

さらに覗いた人には講演の動画まで目に入るだろう。



さて,今日の結論だ。


『情報』を取るか『個人』を取るかではなく,『情報』を取れば『個人』も取れる



では,また

長濱(2023.8.30)

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