正直者の物書きとは何か
僕はAGILE Innovationというサロンを運営していてほぼ毎日3000文字の記事を投稿しているのですが、周りからすると「何の集団だ…?」と怪しく思う人も少なからず居るはずなので、今日は特別に記事を公開したいと思います。
途中から「ここから有料です」とかじゃなくて全編無料なのでぜひお楽しみくださーい!^^
こんばんは、昨日の記事で「今日のnoteが伸びるかどうか事前に分かる」という話をしておきながら、昨日更新したnoteの伸びが早速予想を上向きに外れていることをご報告したい長濱です。
#穴があったら入りたい
#嬉しい誤算ではある
▼昨日のnoteはこちら↓↓
さて、今日は「正直者の物書きとは何か」というテーマ(ちょっと小難しい感じですが比較的わかりやすい話)をしようと思います。
note毎日更新中!
今日でnoteの連続更新が31日目、
つまり1ヶ月が経過したことになります。
以前180日ほど続けていた時の序盤の気持ちを思い出すと共に、たまに自分のnoteを振り返るとクスッと笑ってしまうことがあります。
その笑いが何処から来るかは一度置いといて、私の普段書いている内容そのものについてココで少し裏話をしておきたいと思いまして、今こうして文字に起こしています。
ココからは例の如く、昭和の人のような口調で喋りますが、中身はいつもの長濱です。ご容赦。笑
▼今日のnoteはこちら↓↓
正直者な物書き
私の普段の書き物を「批評」だと思って欲しくはない。批評というのは相手を褒める技術であって、相手のアラを突くような小技じゃない。もっと高尚なものが批評である。
批評と批判は真に異なるものであり、批評という言葉に内包された「否定」という世間のイメージはズレているということをこの場でキチンと書いておきたい。
noteで書いていることは大抵の場合、社会に対する何らかのアンチである。それの質はともかくとして、自分で毎日2〜3000文字書き切るという意味では有効な手段である。
知り合いに国語力がなくて困っている者が何人もいるが、その人たちほど文章を書いた経験がない。読んだ経験はさらにない。野球について全く無知な人にバットを振らせても縦に振るかもしれないだろう。それと同じだ。
noteで書いていることの中には少し突飛に聞こえるものがあるだろう。そして、その意見が読者である貴方に合う場合もあれば、一切受け付けない時もあるだろう。当然、それでいい。
それで良いのだが、ひとつ付け加えるならば私の普段書いている書き物の中で変わった意見などホントはひとつもない。時折、アイツの意見は変わってるだとか生活が不気味だと何とか言われるが、当人からすれば納得はいかない。
例えば、世の中で画期的な意見だとか天才だとか持て囃されるものの殆どは「順序よく考えられた冷酷な意見」だったりする。コレに対して「天才が現れた!」と煽てるメディアや大衆に対して、私はどうしても怒りが見え隠れするのである。
彼ら、あえて大衆とキツい言葉を使うが、その者たちがしているのは潮流に飲まれ、言われるがままに動く、まるで操り人形のようなものだ。
煽てられている当人に対して本当の意味で誠実に接している人は、案外厳しい意見や批判を投げている人である場合があることを忘れてはいけない。
よく誤解している例を見掛けるが、意見で重要視するべきは推論の過程であって、切り取られた表面上の結果だけではない。もちろん結果も大切だと踏まえた上で、「だけではない」と表現しておく。
例えば、なにも考えずに賛成といった人と、長年吟味した上で先と同じAという意見に辿り着く場合は往々にしてある。しかし、例えばTwitterの140文字であれば、表面上の結果しか見ることができない。その人の本を読まずメディアの切り取ったタイトルだけ見れば180度違う捉え方をしても決しておかしくはない。ちなみに、厳密には、話し手がの伝え方不足ではなく大衆が見ようとしないのだ。
すると、どうだ。私たちは正直者の物書きに対して真摯である必要がある。
近頃、芸術家として活躍した北大路魯山人(きたおおじろさんじん)の文章を好いている。彼の明らかなる自然への信仰、古来への尊敬、大衆に対する嫌悪というのは読み手の私も思わず笑ってしまうほどである。
しかし、どこかその文章もまた味わいがある。あくまで私の中の魯山人が喋っていることだが、痛切なる批判をする背後には自身の進退を掛けた強烈な覚悟があった。
魯山人本人の記述によれば、彼は家族がいない。共に暮らす友人もいなければ頼るような人もいない。けれど、彼は自然が友達だった。食や音、書や絵といった芸術も深く好いていた。もっと言えば、彼は森に住んでいたらしい。
そこには彼なりの自然と共生する矜持があり、近頃はそういった文章が消え去ってしまった。言葉に覇気がなく、語気がどうも生やさしい。
どうでも良いことで揚げ足を取るようになったからこんな現状は生まれるのだ。岸田総理が〇〇と言ったら「〇〇はおかしい!」と批判するだけでなく、「話し方が悪い」と言う始末。そうさせたのは世論を組み立てた貴方だろうと思ってしまいたくなる。
もちろん、彼の政策に対する意見では全くないし、自民党だとか政治思想に対する意見じゃない。ただシンプルに、話し下手な総理を作ったのは国民そのものである、という話だ。
#ご理解頂きたい
noteもできる限り正直に書き連ねるようにしているが、どうしても世間の姿が頭によぎって本音を書ききれないことが少なくない。物書きと自分で言うつもりは無いけれど、日々あれこれ書く者としては今の現状は非常に辛いものがあるのだ。
そのためにサロンを設けた。自分の書きたいことを書くために。ただ、コレはもはや無意識なのだが、サロンでも気を遣った文章を書く日が増えてきた。昔より体裁の良いものが増えたと自覚している。
もちろん話が以前より難解になっているから読み手からすれば「むしろ本音を書いているんじゃないか…?」と思われないこともないだろう。
しかし、実際にはそれと真逆。書きたいことと書くことの割合は下がっていく一方である。書き手の側に問題がある気もするし、そもそも本当の意味での言論の自由は今の世界どこにも存在しないかもしれないとさえ思う。
きっと昔の人だって過去のスタイルを守るために声を荒げた人がいる。江戸城でキリスト教について強く抗議したものがいるだろうし、古墳を作る時だって身内からの反対も多かったであろう。
じゃあ、その時に言論の、本当の意味での自由があるのか、という問いをもう一度考えると、どうやらその時にもなかったかもしれないとさえ思うのである。
つまり、歴史は繰り返し、私たちが自由に発言できた時代は今の今までひとつもないかもしれない。少なくとも今の私たちの目から見ればそう感じる。
こういった歴史を心で観ることが重要であることもまた伝わっていれば幸いである。オチのない話だが、たまにはそういった文でも良い気さえする。言論の自由のために。
では、また明日
長濱(2024.4.17)
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