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インド大使館『アンベードカル生誕祭』

 去る4月14日、東京九段のインド大使館に於いて、日本在住インド人仏教徒の非営利団体:アンベードカル博士国際教育協会 (B.A.I.A.E.) 主催による『第131回アンベードカル生誕祭』が開催されました。本年は〝日印国交樹立70周年〟に当たり、その関連行事として、生誕祭当日はサンジャイ・クマール・ヴァルマ駐日大使も御臨席下さいました。
まずは、パーリ語「三帰依五戒文」の唱和から。

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三帰依五戒文をお勤めする私:髙山龍智

 続いて、インド大使サンジャイ・クマール・ヴァルマ氏から御祝辞と記念の御言葉を賜りました。

Ambassador Shri Sanjay Kumar Verma Jee

 祝賀行事に移行し、初めは古参のB.A.I.A.E.メンバーによるアンベードカル讃歌「भारत के निर्माता (インドの創造者)」合唱。原曲はボリウッド挿入歌のスター歌手たちが4年前に総結集して作った天竺版「We are the World」です。
【YOUTUBE】https://youtu.be/MNwuKXQ4CBE

『インドの創造者』を熱唱する在日インド仏教徒

 この日のために練習を重ねて来た〝ほとけの子〟らによる古典舞踊、英語スピーチ、日本語スピーチ、ボリウッド・ダンスの披露。仏典や仏伝に記される「歓喜踊躍(かんぎゆやく)」、そして「富楼那の説法」を地で行くパフォーマンスです。

仏教は子供の元気の源です

 日印両国のゲストによる講演が続き、最後は集合写真と恒例の「ジャイ・ビーム!」。向かって右端で拳を振り上げているのが私。

「ジャイ・ビーム (我等に勝利あれ)!」

 あえて言うまでもありませんが、生誕祭当日、盛装で参加したインド人仏教徒も、日頃は一般の主婦として、あるいはサラリーマンとして、日本社会に溶け込んで生きています。
そして彼らは、祖父母の代まで(!)故国インドでは〝ひと〟として認められていなかったのです。
 1891年4月14日、アンベードカル博士はいわゆる「不可触民」の子として生まれました。不可触民とは、ヒンドゥー聖典『マヌ法典』に基づき、触れてはならない、声を聞いてもいけない、その影を踏んだだけでも穢れる、とまで忌み嫌われた最下層の身分です。
数限りない差別と虐待に耐えて勉学に励んだアンベードカル少年は、奨学金を得てアメリカやイギリスに留学。そして政治学、経済学、社会学、歴史学、法学など多岐に渡る分野において才能を開花させ「Dr.」となったアンベードカル青年は、帰国後、インドの階級差別撤廃運動に着手。その過程で、社会改革と人間解放のための宗教的・思想的な支柱として、仏教を復活させる必要性に気付きました。
 1947年、インド独立に際して初代法務大臣に就任。1949年、あらゆる差別を禁止じた現行インド憲法を作り上げました。しかし法の整備だけでは無くならない不正義や不平等と闘うべく、1956年10月14日、中央部ナーグプール市において、数十万の被差別民衆と共にヒンドゥー教から仏教への集団大改宗を挙行し、仏教の復興を宣言しました。
 この被差別民衆の中に、今は日本で暮らすインド仏教徒のお爺さんやお婆さんがいたのです。

「宗教と奴隷制は両立しません」アンベードカル博士

 最後に個人的な述懐───
こんな、箸にも棒にも掛からない私を〝一国の大使館行事〟にまで引っ張り上げてくれたのは、師父:佐々井秀嶺です。そして、いつも私の背中を押し続けてくれたインド仏教徒のお蔭です。
どんなに感謝してもしきれない思いを込めて…
「ジャイ・ビーム!」

「まだまだ甘っちょろいぞ」佐々井秀嶺師


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