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約束の地 <JINMO Canaan>

  爰にヱホバ、アブラムに言たまひけるは
  汝の國を出で
  汝の親族に別れ
  汝の父の家を離れて
  我が汝に示さん其地に至れ

  我汝を大なる國民と成し
  汝を祝み
  汝の名を大ならしめん
  汝は祉福の基となるべし
  我は汝を祝する者を祝し
  汝を詛ふ者を詛はん
  天下の諸の宗族 汝によりて福禔を獲と

(『舊新約聖書』創世記十二章 日本聖書協会 1953年)

 ・「約束そのもの」と、約束によって「果たされること」とは、同一ではない。また、約束はそもそも「そこにあったもの」ではない。

 約束が為されたからと言って、その約束が果たされるという保証はどこにもない。

 一般的に約束の保証は、その約束が交わされた者たちの間における信頼性によるが、その信頼性は約束の保証性を高めるわけでもない。

 通常、約束が果たされるという信頼の確証性は、約束を交わし合う者の行動の繰り返しや積み重ねから反省されることによって得られる。

 そのため、約束における信頼性や保証性を高めることは、あくまで個々人の関係性においてのみ可能であるため、それぞれの主観のうち以外においては、約束に対して一定の確証性を依拠できない。

 すると、観念による約束は、一切の直接的(direct)な根拠を得ることができない。

 ここにおいて、観念による約束とは、その保証性が依拠できる事実や根拠がないまま放たれるものであり、そのために一方的なものとなり、言語の相関的構造としては「命令」と大差がなくなる。

 ただし、命令と約束の差異としては、命令は、それが示すものを果たすことが義務または前提としてある言葉だが、約束はそれが示すものが果たされることを前提としていない。

 しかしながら、約束や命令はその否定によって言語的な意味を失うため、逆説的に承認という対他性によってのみ、約束や命令はその意味を得られることが分かる。

 また、そもそも意味とは、表現における多様性の包括を一方向性のうちに「承認する」ことである。

 例えば、木という意味の認識は、木の多様性を包括しながら、木というイメージの方向性に、対象の認識を同一化することを己の内に承認することによって、木という意味を持つことになる。

 そのため、命令という言葉の意味を考えた場合、放たれた命令に対する承認によって、命令は発せられ与えられたものから、為されるべきものとしての「義務」を前提として意味のうち抱えることとなる。

 また、承認によって、命令を受け入れるだけでなく、命令が発せられるところの志向性と、その関係までもが包括されることとなるため、命令の前提としてある「義務」を他性でなく自性として抱え込むことが可能となり、承認による他性の自己同一化すら可能となる。
 そして、他性の同一化は主義性を含む。

 主義とは、ある一定の論理が持つ方向性へと自らを同一化することであるため、主義のうちに於いては命令はもはや放たれることがあっても、すでに方向性を画一化されており、個人すら主義と同一化されているため、命令と言うよりは「指令」となり、その主義という「意味の循環性」を担うものとなる。

 ここで、約束における「意味」を考えた場合、約束は前提として意味の内に義務を持っているわけではないが、「無根拠なる前提」を持っている。
 そして、与えられた「約束」を自性として抱え込むことで、約束のうちの方向性と同一化することとなる。
 すると、約束は「無根拠なる志向性」と方向性を同一化することで、自らの志向性を意味として成り立たせるために、一定の範疇における「意味の循環性」を求め続けることとなる。

 すると、約束は常に「(その本懐が無規定である)欲望」そのものとなりうる。

 なお、ここで言う「意味の循環性」について言及しておきたい。
 そもそも相互補完的である言葉(単語)の意味は、その意味の持つ「一方向性」によって他の言葉の意味から差異化されているため、常に言葉は「示すもの」としてある。
 しかし、「示すもの」は完全に唯一なるものを指し示せないが故に、言葉は定義される複数の条件を抱え込まざるをえない。
 例えば、1という概念が純粋に概念として成立するには数学の範疇においてのみであり、1というものが現実世界においても、最小の物質においても、必ずそこに何かを含んでしまう。
 そこで、一定の範囲のうちに「語られるもの」として単独性や独立性を持たせることによって、言葉は意味の循環性を持つ。

 このように、「語られるもの」として意味の循環性が一定の範疇において保持されることで、例えば主義や約束においても、他の事象や意味とくっつくこととなり、一定の範疇において意味を拡大化されることができるようになる。

 また、この意味の循環性の拡大可能性によって、宗教や主義、または国家(的意識)などの「概念」としてある言語的成立があること。そして、それらが事実性と連関し、「為しえるもの」と同時に「語られるもの」としての循環性が(観念ではなく)現実として留められることになる。

 そして、この観点によって「精神」というものを観ることができる。

・約束は存在として無いのであれば、約束は真実とは言えない、かといって虚偽でもない。

 精神は、事物的に存在を立証し得ない極めて概念的な観念であるがゆえに、その真実性を具象性や相関性にしかに求めることができない。

 通常、精神は観念的な言葉としてあるため、そもそもすでに述べたような意味の循環性を持つが、それが発露した状態が「語り」えない限り、観念と同様に、意味が規定不可能となり、人々の志向性によって意味の破壊と再生の内にある。

 よって、精神は為されるもののうちの現れとしてしか、そのものの規定可能性を持ちえない。

 言い換えるならば、精神は「現れたもの」として、意味の循環性を還元されなければ、その精神のありようや、その源泉を現しうることができない。

 精神の真実性はその存在を「語ること」に立証可能性があるのではなく、その存在たらしめる「現れ」によってのみ精神はある。
 精神の「現れ」が意味の循環性として、一定の具象性や事実性そのものににおいて「保持される」ことによってこそ、精神たりうる。

(ヘーゲルは、まさにこの手法において精神の現象を語っていた。)

 つまり、精神においては、そこにあるという真実性があれども、その整合性や正誤を如何を問うことや、そのものとして現されるか否かを問うことは無意味であるため、具体的に言うなれば、とある機構や組織、運動などの為しえたものにおいての「現れ」として逆説的に精神を知ることしかできない。
 すると、精神は、為しえるものによって知られ、なおかつ為しえる観念としてあることから、その内に純粋な可能性を含むこととなり、事物性を為しえることによってからも、創造の志向性においてある、と言える。

 約束もまた精神と同じく、為しえるものとして知られるために、創造の志向性とともにあるが、約束には約束が関係する事物性や他性が持つ志向性に必ずくっついてくるため、創造のような純粋な可能性を含むものではない。

 そのため、約束は、常に示されたものの内に留まりながら、語られるものとしてあることが分かる

 ・約束は言葉としてあるため、示されたものである。しかしながら、示された約束は、そこにはない。そこにはないが故に、存在しているのではなく、存在されうるものとなる。

 約束は「語られるもの」としてあるため、言うまでもなく言語そのものの法則性や志向性からは逃れられないが、先述したように存在するものではないために、実際には語ることが不可能なもの(語りえぬもの)としてある語られるもの、という意味の矛盾を持つ。

 また、約束は事物性に依拠し、なおかつ「その無根拠なる志向性そのもの(欲望)」でもありえるため、約束が依拠する事物の創造性においてのみ、存在されうる。

 言い換えれば、約束は、そのものではなく、約束がくっついている事物性について語られることによって、存在性を得る。

(無論、事物性が虚偽であれば、約束そのものも虚偽である。)

 すると、約束はそのものとして意味の矛盾をすでに持っているが故に、事物性における創造性そのものを問わずとも、言葉として現れることによって意味の矛盾を繰り返すという、虚偽の循環性を保持していることがわかる。

 このような要素を持つために、約束は事物性なきもののに対しても可能であり、約束それ自体が事物性なきものへ行われ続けることで「空虚なるもの」に限りなく近づく。

(なお、命令は対象という事物性に向けられるが故に事物性を失いえない、この点において命令は約束とは明確に異なる。)

 よって、事物性なきものに対する約束や、その約束が誤謬として循環することによってなされることで、「空虚なるもの」の存在を存在せしめることも可能となる。

(「空虚なるもの」は、存在せぬことをあらしめるが故、「実体」の究極のアンチテーゼとして想定される「虚体」とも言えるかもしれない。)

 つまり、永遠に果たされないままの約束であり続けることが、約束においては可能であり、そしてまた常に未達成であるが故に、「空虚そのもの」であることも可能となる。

 一方、約束の有無に関わらず常に果たされれつつあることが、創造である。

 以上より、空虚と創造は、常に未達成であることにおいて同一性を持ち、自己言及性において、また自己同一性においても、約束は同様に、空虚的にも創造的にもはたらくことが分かる。

 ・よって、約束が果たされるとは、約束を存在せしめることでは無く、関係性そのものの達成であり、すなわち関係性を存在させることである。そしてまた同時に、約束はその空虚さが破られることとなり、創造となる。

 「我思う故に我あり」とは、まさに我をあらしめる意味の循環において我であるが、「思う」ことの連続性の先にある期待値の「我」は、無限の問いとなるため空虚でしかない。
 そのため、「我思う」ことにおいて「我」という創造性と共にあることによって、我は「ある」と承認することができ、また同時に、意味の循環としての「我」が可能となる。

 ただし、空虚と創造のどちらの先においても志向性があるが故に、志向性の仮象化としての希望はあり、それは約束によって保証され、また破壊されもするが、空虚性からは逃れられない。

 まさにそれゆえに、志向性は具現化し、具象化されなければ創造たりえず、仮象や仮称のままであってしまうことで、常に空虚なるもの、妄想なるものに陥る。

 (よって、心象としての希望はすなわち絶望と「背中合わせ」である。)

 そのため、約束はまさに関係性そのものに対して依拠させざるを得ず、約束は未達成なものとしてしかありえないことによって、関係性のみを表すに留まるがゆえに、その存在は空虚となる。

 一方で、約束は果たされることによって、約束ではなくなると同時に関係性そのものの新たなる創造と、関係性の存在を示す。

 また、約束を志向性の観点で考えるならば、約束へ向かう志向性は空虚なものへ向かわざる得ないのであるが、承認によってその志向性が整えられるために、関係性のみを表し、関係性の存在を示すものとしてある。

 すると、関係性の集合体であり、一定の志向性の集約であり、また言葉としても具象性から離れ得ない「場所(地)」という概念に「約束」がくっつくことによって、場所は、仮象や仮称のままであることなり、常に空虚なるもの、妄想なるものとしてあることが可能となることが分かる。

 ただし、場所は、志向性なきものとしての場所としてはあり得ないため、志向性なき場所はすなわち「無」としてある。
 しかし、約束は、空虚の証明すら可能であるがゆえに「無」としての場所を規定し、言葉として保証することすら可能である。

 一方で、志向性の確証性を高めるものとしての約束が、常にその「場所」という事物性と創造性に根ざしていた場合、場所そのものが常に更新され続けることで、無限にも近き「現在性」に向かうこととなる。

 故に、「約束の地」と明示することによって、存在否定の極北における「虚無」として志向性によって、その存在はあらしめられ、そしてまた創造の究極である「誕生」においても、同じくあらしめられる。

 しかし、虚無も誕生も、そのの特異点的な性質により、無や無限などと同じく、意味の「境界」そのものであることとなり、循環的な永遠性をそのうちに持つが、概念に留まらざるを得ないが故に、存在(ある)とはならない。

 であるならば、言葉以前にあること、すなわち存在そのものの証明を行為にとして続けることによって「約束の場所」は言葉を超え、同時に「約束の場所」として常に「今」において「あり」うる。

 すなわち、「我あり(I am)」。

 存在そのものとして、行為そのものになることで、「約束の場所」は現実のものとなる。

 垂直に昇天するごとく、垂直なる志向性にのみ、「我」があるのだ。


  爰にヱホバ、アブラムに言たまひけるは
  汝の國を出で
  汝の親族に別れ
  汝の父の家を離れて
  我が汝に示さん其地に至れ

  我汝を大なる國民と成し
  汝を祝み
  汝の名を大ならしめん
  汝は祉福の基となるべし
  我は汝を祝する者を祝し
  汝を詛ふ者を詛はん
  天下の諸の宗族 汝によりて福禔を獲と

 (結)

【注:本作品は、あくまでJINMO氏の作品群への寄稿文であり、彼や彼の作品そのものと直接関係するのではありません。同じ主題を扱った全くの別の作品であり、JINMO氏の音作品群を楽しむためにあるものです、ご了承ください。】

JINMO +++ Canaan (ver.6.0) +++

<以下、上記URLより引用>

Canaan (ver.6.0)

2006/04/19 リリース(avantattaque-0006)
2016/12/6Last Update
全1曲 (total. 51:47)
フォーマット:Apple ロスレス (44.1kHz 16bit)
ウェブ・ストリーミング版
ジャケット・写真:ojoblanco (Lester Weiss) 
ジャケット・デザイン:HARI
Created by : JINMO
Published by : Avant-attaque

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