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エヴァンゲリオン・エトセトラ

 25年前から日本アニメ界を揺るがしていたたセンセーションが、やっと暖かい拍手で迎えられた。そんな感慨が今も胸を満たしています。

 テレビ版、旧劇場版、漫画(貞本)版、新劇場版と、その度に少しづつ形や設定を変えて、まさに時代そのものを表したと言える唯一無二の作品、『新世紀エヴァンゲリオン』

 かつては、大問題作として、世間から過剰な賞賛と批難に晒された作品も、そのキャッチコピーである「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」という言葉ともに、ようやくその幕を閉じることになりました。

 まさに有終の美を飾るに相応しい、日本アニメ史上、最高傑作とも言える仕上がりとなり、同じ国に生まれた者として、誇らしい気持ちで観させていただきました。

 25年前とは異なり、今では数多くの批評や考察がネットを埋め尽くしていますが、今まで縁あって、『エヴァ』を語り合った方々のために、改めて「解説」を残しておきたいと思います。

 ただ、庵野監督とスタッフの皆様、そして作品を支えてくださった全ての人への感謝があったせいか、22,000字を超える長文となってしまいました。閲覧される場合はご注意ください。笑

 それでは、どうぞ宜しくお願いします。 

0. 序

 まず題名にもある「エヴァンゲリオン(evangelion)」という言葉ですが、これはギリシャ語の「福音」からです。

 この言葉は16世紀の「宗教改革」において、エヴァンゲリカリズム(福音主義)という言葉となって、明確な意味を持つようになります。

 福音主義に関しては、wikipediaの説明が一番わかりやすいので、その転記します。

 「福音主義(ふくいんしゅぎ、英語: Evangelicalism)、福音主義キリスト教、または福音主義プロテスタントは、プロテスタントキリスト教における世界的な宗派を超えた運動であり、福音の本質は、イエスの贖罪を信じることによる恵みのみによる救いという教義であるという信念を持っている。福音主義者は、救いを得るためには改心や「新生」の経験が重要であること、神が人類に啓示したものとしての聖書の権威、そしてキリスト教のメッセージを広めることを信じている。」(wikipediaより)

 そのため、『新世紀エヴァンゲリオン』(以下、『エヴァ』)は、「新世紀の福音」という意味も持っています。

 また、キリスト教における「新生」と「新たなる創世記(neon genesis)」という二重の意味を含んだ上で、「新世紀」として書いているとも考えられます。

 ちなみに「新生(new-born)」とは、簡単に言うと「罪が許されて聖霊によって霊的に新たに生まれ変わること」です。

 つまり、『新世紀エヴァンゲリオン』とは、題名からも、その内容からも、霊的に生まれ変わること、つまり人としての根本的な「進化」を表現していると言えるでしょう。

1. アダムとイブ

 『エヴァ』のモチーフとしてよく使われているのが、旧約聖書です。

 旧約聖書は、ユダヤ教およびキリスト教の聖典ですね。

 旧約聖書によれば、神様は最初の人類であるアダムを作りました。

 そして、アダム(男性)の肋骨の骨からイブ(女性)を作ったと書かれているんですね。(創世記 第2章)

 私、子供の時にも思ったのですが、イブが肋骨からできた?ってのが、超不思議でした。

 しかも、旧約聖書の前章ですでに「女性」が創造さているんですね。

「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男性と女性(ザハルとウネケヴァー)とに創造された。」
(創世記 第1章 27節:カッコ内はヘブライ語)

 「え?、じゃあ、イブってマジで肋骨?」という疑問が浮かびますね。

 そもそもヘブライ語では、イブは「肋骨」ではなく、「辺」や「側面」(ミツアルオタヴ)という意味なんですね。

 「側面」ってことは、つまり男と女は合体してて、片方が女性だった、って考えもできます。

 これは、人間はもともとアンドロギュノス(両性具有)だった、という考えに基づいているようです。

 アンドロギュノスとは、プラトン『饗宴』にも出てくる、顔2つ両手両足が4本ずつついた「男女(おとこおんな)」です。

 「男女は背中合わせにつながっており、互いに似通った二つの顔を持ち、速く走りたいと思えば、8本の手足でぐるぐると回転しながら進む」という気持ちわるい生き物です。

 まぁ、生命はそもそも単細胞生物だったとして考えれば、原初としては確かに似ているんですが。笑

 そしてアンドロギュノスは、「エロスが求める人間本来の完全なる姿である。」そうです。

 そのため、人間は失われた自分の「半身」を求めて互いに探し続け、本来の完全な姿へと回帰しようとするわけです。

 この力が「エロス」であると、とされます。

 ちなみに、宗教学者のフィロンとかアウグスティヌスとか、いろんな人が創世記 第1章 27節の解釈を考えてます。

 また、グノーシス主義の場合は、この一節を「男女(おとこおんな)」という存在として考えているので、上記の説と近いですね。

 また、『エヴァ』においてもアンドロギュノスのイメージは、随所に見ることもできます。

 ちなみに、続く旧約聖書 第二章では「人にはふさわしい助け手」として男(アダム)から取った一部を人は「女」(イブ、ヘブライ語でイシャー)と呼んだ、と書いています。

 続いて、「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。」と書かれるわけです。

 まぁ、とにかく、私たちはもともと1つだったものが2つに分たれたため、とにかく合体したり融合したりしたくなる、ってことですね。

 要は、私たちは、すでに欠けているってことです。

 なので、言ってみれば、この欠けた部分を埋めるのが、『エヴァ』でいう「人類補完計画」の目的の一つでもあるんですね。

 そのため、意識や体が全て合体することによって、「分かり合える」とか「気持ちいい」とか言われて、テレビ版の最後の方に、大量の描写が出てきたりします。

 この時のアニメ表現が、小中学生時代の私にとって、もう刺激が強すぎて何回リピート再生したことか。笑

 とにかく、全人類を合体させて、一体化することで、人類を元のアンドロギュノス的な「完全な」状態にするのが、「人類補完計画」ってことですね。

 余談ですが、アニメ『創世記アクエリオン』とか、『コードギアス 反逆のルルーシュ』などにおいても、この「合体」や「融合」と「神」がモチーフとして使われていたりします。

 ということで、『エヴァ』における「人類補完計画」とは、とりあえず人類全員を融合させるってこと、です。

 ちなみに、アダムとイブの他に、ユダヤの伝承においては「アダム以前にアダムと同じく土からつくられた」と伝えられている「リリス」という存在があったりします。

 リリスは土(アダマー)から作られたため、アダムと同じく神によって作られたと考えられるんですね。

 そのため、テレビ版『エヴァ』の設定でも、すでに「アダム」&「リリス」がいて、その「アダム」の一部から「イブ」が作られた、となっているようです。

 ついでに『エヴァ』には、ユダヤ神秘主義の言葉「Eva(ヘブライ語でハヴァ)」で「生きているもの」という意味の含みあるようで、複数の夢魔(インキュバス)が彼女と交わって悪魔たちを産んだというモチーフも、それとなく感じることができます。(『ユダヤ神話・呪術・神秘思想事典』)

 それによってか、人間は(悪魔とされる)リリスの子孫であり、その所業が「悪」でもある(例えば同族殺しや環境破壊などを平気で行うことなど)から、悪魔の一族「リリン」と呼ばれているのでしょう。


2. 知恵と生命

 旧約聖書では、その後、アダムの片割れであるイブが蛇にそそのかされて、アダムと一緒に「知恵の実」を食べたとされます。

 「知恵の実」とは、神によってアダムが神に置かれた場所、「エデンの園」の中央に生えてる2本の木のうちの「知恵の樹」に成る実です。

 ちなみに、もう一本の木は、「生命の樹」と呼ばれ、この両方を食べると、「神(たち)と等しくなる」そうなんですね。

 そのためか、神様は「食べたら死ぬから、これらの実を食べてはいけない」としてアダムに約束させていました。

 でも、結局アダムとイブは「知恵の実」を食べてしまい、結果、自らが裸であることを知って、恥を覚えました。

 ただし、生命の実は食べなかったので、永遠の命は得られませんでした。

 これを知った神がエデンの楽園から、アダムとイブを追放したんですね。(創世記 第三章)

 で、この神様との「約束」を破ったこをキリスト教では「原罪」と呼んだりして、人は生まれながらに罪を背負っている、などと言われます。

 ってか、蛇はリンゴを食べろとは言ってなくて、食べても死なないよって言っただけなんですけどね。

 なので、神は約束を破ったことだけを罪にしたわけです。

 蛇が伝えたのが事実だったとしても関係ないんですね。笑

 そのためか、旧約聖書では「契約」というものに対して、異常なほど過敏です。

 しかし、逆に「契約」に基づく商業やお金に関しての教えは物凄く洗練されており、現在もユダヤ教から派生した金融業が世界の覇権を握っているわけですね。

 とりあえず、「知恵の実」を食べたのが、人間です。

 そして、「生命の実」を食べた(らしい)のが、「神たち」です。

 この対比は考えてみると面白いもので、『エヴァ』(新劇場版『Q』)でも、下記のように描かれています。

 まず、生命はもともと環境に応じて、自己を変革してきたんですね。

 進化なのか突然変異なのか、まだよく分かってませんが、ダーウィンが言うように、とにかく環境に対応しようと変化したものが、今まで生き延びている。

 一方、人間は、自分たちに合わせるために、環境を改変している、と言えます。

 様々な環境において生き延びようと、知恵を使って、道具を使い、最終的に環境そのものすら変えようとします。

 近代となると、かつては自然から神を想定し、一人神までも想定していたはずが、神を殺す(ニーチェ)ところまで進化していったわけです。

 まさに、知恵がなければ考えつかないことですね。

 『エヴァ』の場合においても、「知恵の実は、知恵を持つ生物を産んだ」と言う考え方をしています。

 一方、「生命の実は、(天使や神のように)死なない生き物を産んだ」としているんですね。

 ここまでなら別に問題はありません、どちらの生物も、相手の存在を相互承認して、個別に生きていればいいんです。笑

 でも、人間が永遠の命を求めたらどうでしょう?

 かつて「生命の実」を食べないようにと、エデンの園を追われた人間が、再び生命の実によって、永遠の生命を求めたらどうなるか、です。

 天使や神が存在していたら、もしかすると人間と神の戦争になるかもしれませんね。

 またもしくは、新約聖書の『ヨハネの黙示録』のように神や天使によって人間がいつか裁かれるとしても、人は「はいそうですか」と簡単に裁かれはしないでしょう。

 『エヴァ』ではこのような背景を下敷きに、天使(または神)に対する人の戦いが描かれています。

 なお『エヴァ』における天使とは、使徒と呼ばれ「単独で存在している準完全生物」であり、「人類を滅ぼすもの」なのだそうです。(劇場版『序』)

 まさに生命の実を食べた、と言える存在ですね。

3. キリスト教と使徒

 しかし、この「使徒」と言う存在、テレビ版では18種類、漫画版では12種類、新劇場版では10種類(後半で12+1種類に変更)と言う、もうめちゃくちゃな設定遍歴です。笑

 しかも、もともとユダヤ教(旧約聖書外典等)から引用された「天使」でしたが、新劇場版ではキリスト教が入ってきています。

 なので、一度キリスト教における「使徒」をご紹介したします。

 まず、キリスト教で使徒と言えば、キリストの12人の高弟のことです。

 ペトロ、(ゼべタイの子)ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、(アルファイの子)ヤコブ、シモン、ユダです。

 名前だけだと分かりづらいですが、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』に書かれているキリスト以外の全員、だと思ってください。

 ちなみに、使徒は、12人ではなく13人目がいる!とか言われたりします。

 これは、映画『ダ・ヴィンチ・コード』シリーズなんかで語られたりする、もう「一人の使徒」です。

 レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』には、「マグダラのマリア」が描かれていた、という説ですね。

 また他にも、キリストを銀貨30枚で売ったとする裏切り者の「イスカリオテのユダ」を使徒と看做さず13人目であるとしたり、代わり12使徒として別の高弟(マティア)が選ばれたとか、13というナンバーが不吉であるという俗説(13日の金曜日)とか、とりあえず色んな要素が絡んでいたりします。

 エヴァでもこの13と言う数を非常に意味深いものとして、使ったりしています。

 彼ら十二の使徒は、確かにキリストの教えを広めた人たちと言えますが、その一方で、キリストを復活(新生)させた人たちとも言えます。

 と言うのも、キリストは磔になって死んだことによって、彼は人間の罪を代わりに償った(贖罪)とされています。

 これによって、「人間の罪が許され、神との正しい関係へと戻った」などとも言われるんですね。

 しかし、冷静に考えたら変ですね。

 償ったのはあくまで結果論であって、キリストのことが、より多くの人に知られることによって、キリストが磔になったわけです。

 すると、キリストの十二の使徒は、むしろキリストを磔にさせるために存在したのでは、とも考えられるんですね。

 高弟たちがいなかったら、磔にならなかっただろうし、贖罪になりませんものね。

 それどころか、むしろキリスト自身が贖罪のため、つまり磔にされるために生まれたとしたら、どうでしょう。

 キリストは全能の神様ですから、磔にされることなんて、生まれた時から織り込み済みだとも考えられます。

 ということは、キリストは、自分を磔にさせるために、十二の使徒を選んだってことになります。

 となると、ユダは決して裏切り者じゃないんですね。

 むしろ、ユダがいなければ、磔にならなかったので、彼もまた必要不可欠だったわけです。

 まさに、神の許しや愛の無限を感じれますね。

 (私はキリスト教徒ではありませんが)

 とにかく、贖罪のためにキリストは生み落とされて、そして十二の使徒によって磔にされて「死ぬ」ことで、復活(新生)している。

 すると、これと同じパターン、つまり神に近しい存在を贖罪させる事で、人間も同じく神になれると言うのが、おそらく『エヴァ』でも考えられたようです。

 そのため、『エヴァ』では、EVAや使徒を下敷きにして、なおかつ人間という存在を触媒にすることで神になれる、というような描写も散見されるのでしょう。

 では、そもそも神になるとは、また神が産んだ「生命」とはいかなるものなのでしょう?

4. 生命の発生

 生命が発生したこの地球が、現在の形になったのは、およそ46億年前であると言われています。

 しかし、月の生成については、未だに確実な理論は提唱されていません。

 ただ少なくとも、地球(のマントル)と月の化学組成が非常に似ているため、月は地球から何らかの形で分離したはずだ、と考えられるんですね。

 でも、地球から月サイズの衛星がそのまま分離するとは考えづらい。

 そこで考え出されたのが、ジャイアント・インパクト説というものです。

 ジャイアント・インパクトとは、46億年前、地球の生成後まもなく、およそ火星のサイズ(地球の二分の一ちょっと)が地球にぶつかった(もしくはもう少し小さいサイズが複数個ぶつかった)ことによって、月が発生したと考える説です。

 この当時、まだ地球は火の海で、マグマの海が広がっていた状態でした。そこに隕石がぶち込まれることで、地球の地殻が分離して、月ができたってことです。

 で、エヴァでは、このジャイアント・インパクトを『ファーストインパクト』と呼んでいます。

 つまり、「生命」と「知恵」を持つ2種類の生命が隕石として地球にやってきたという設定なんですね。

 これは、私たちはそもそも「宇宙人の末裔だ」という考え方から来ています。

 これは、映画『エイリアン』シリーズの『プロメテウス』(2012)でも描かれていたりする『地球外生命飛来説』の一つですね。

 簡単に言うと、宇宙船みたいなものに乗って異星人がやってきたから、生命が生まれたという考え方です。

 エヴァの場合、まずはるか昔、宇宙のどこかに知的生命体が存在していたようです。

 しかし、彼らは自らの星が滅びる運命だと知ったため、自分達を生命と魂を「卵(根源の姿)」にまで戻して、宇宙へと旅立ったそうです。

(この「卵」の姿に戻すためのアイテムが、『エヴァ』におけるロンギヌスの槍でした)

 この卵として旅立った種族は2種類あって、一つは自己完結型の準完全生命体である、使徒を産んだ卵である「白い月(アダム)」

 もう一つは、知恵と死によって自らを変革し環境を変革していく人間を産んだ卵、「黒い月(リリス)」です。

 このうち「白い月」が、まず初期の地球に落下、「白い月」は南極側に落下、そこに、続けざま「黒い月」が、地球に落下。

 この時、「白い月」のうちにあった「卵」は大きなダメージを受けて、46億年の深い眠りにつくことになったそうです。

 一方、黒い月は、その後、地球が冷えた(38億年前)頃に「知恵の実」は「進化する」生命を生み出して、今の地球の生態系が出来上がった、という設定です。

 壮大な構想ですね。笑


 実際、38億年前あたりに生命が発生すると考えられているのですが、これはそれまでの隕石の落下によって、生命の根源であるアミノ酸などの有機物が発生したから、という研究結果があったりします。

 有機物さえ出来てしまえば、何とかして生命は出来そうですものね。

 そして生まれた生命は、自己進化し続け、しばらくして人間が生まれます。(約1000万~200万年前)

 そして、この古代の人間たちに対して、黒い月であるリリスが超常的な力?でコンタクトを試みます。

 その結果、古代の人間たちは、預言者みたいな感じになって、自分の生まれた理由や経緯を知ることとなり、文章として書き残しました。

 この時に残された文章が、「死海文書」という設定です。

 これは、実在する「死海文書」においては、「まだ公開されていない内容がある」という要素から言葉が使われたようです。

 なので、実際の「死海文書」とアニメの関連性はそこまで深くありません。

 どちらかと言うと、よくオカルト関連の書籍で取り上げられるマヤ文明の終末論とか、新約聖書の『ヨハネの黙示録』とか、そういう類のものに近いイメージですね。

 そして、初期のエヴァでは、この「死海文書」に書かれている内容からゼーレという機関が作られた、とされています。

 ちなみに、ゼーレ(seele)はドイツ語で言う「魂」です。

 新劇場版のゼーレのマークには、7つの目と、リンゴと蛇が描かれていますが、リンゴと蛇は知恵の実の象徴であり、あとで付け足されたものです。

 なお、この7つの目は、新約聖書『ヨハネの黙示録』に出てくる「7つの目を持つ羊」からのモチーフであり、その他にも「黙示録の四騎士」なども、『エヴァ』において別のイメージとして描かれています。

 なお、彼ら「ゼーレ」の目的は、「神(宇宙人)の縮小コピーとして生まれた人間が、今度は反対に神をコピーして、そのコピーによって神を倒す(もしくは神そのものになる)」ということです。
(『スキゾ・エヴァンゲリオン』より引用、括弧内は著者)

 現代でも、どっかの国にありそうですね、宇宙人とか超常科学研究所みたいな機関が。

 そして、ゼーレの遂行者として、特務機関ネルフ(ドイツ語で「神経」の意味)が作られました。
 (ちなみに、ネルフの前身として、ゲルヒン(ドイツ語で脳)という機関もあったようです。)

 そして、エヴァでは文明が進むにつれ、白い月が南極大陸に、(おそらくプレートテクニクスによって)黒い月は箱根(『エヴァ』でいう第3東京のジオフロント)にあることがわかった。

 そこで、南極と箱根に「ネルフ」を設立します。

 そこで、「ゼーレ」と葛城ミサトの父が率いる「葛城捜索隊」は、西暦2000年、南極でロンギヌスの槍を使った?ことによって、原因不明の大災害を引き起こします。

 これがいわゆる「セカンド・インパクト」です。

 以上のような初期設定があり、新劇場版においては、ゼーレそのものが黒い月であり、人間に「知恵」を授けた「モノリス」たち、という風に変更されるようです。

 この「知恵」を授けた「モノリス」というのは映画『2001年宇宙の旅』にも出てきます。

 では、ゼーレという名前である「魂」は、どう関係してくるのでしょう?


5. 魂の入れもの

 そもそも「魂」とは、何なのでしょう?

 こんな問いを出すと、そもそも魂はあるのか、魂はないのか?心霊現象とは、幽霊とは?みたいな話になっていきますね。

 また、魂とは物理現象なのか、それとも非物質?的な現象なのかも分からないため、そもそも論理的に本質を言い当てることもできません。

 でも、科学的な研究もあって、物理学者ロジャー・ペンローズさん曰く、細胞のうちには「マイクロチューブル(微小管)」があり、量子情報を極小レベルで貯蔵していて、これが魂の情報かもしれない!とかも言われたりもします。

 一方で、アルツハイマーなどの脳の病気や、脳挫傷などによる後遺症の記憶について考えれば、魂の存在は、非常に疑わしい。

 また、もし魂がない生き物がいたとしたら、どうなるのでしょう?

 例えば、もしアンドロイドやロボットが人間のように思考できたとしても、彼らは「魂」のない存在と言えるかもしれません。

 そうすると、魂がある状態と、魂がない状態とは何が違うのでしょうか?

 単に感情がなくなるのか?有機物しか持てないのか?生まれ変われなくなるのか?それとも、生きることすらできなくなるのか?

 謎はつきませんね。

 ただ、昔から特に宗教の世界では、「魂はある」とされてきました。

 そのため、天国や地獄などの「あの世」が想定され、「生まれ変わり」という概念も出てきたわけです。 

 そのうち、ユダヤ教の神秘主義においては、「ガフ」という考え方があります。

 ガフ(guf)とは、もともとヘブライ語で「体」という言葉であり、ユダヤ神秘主義においては「魂の入れもの」という意味を持ちます。

 これは先述した、旧約聖書のアダムのお話に関係があります。

 アダムとイヴができる前に、すでに人間の形はあった、という考え方ですね。

「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男性と女性とに創造された。」って部分です。(創世記1:27)

 この最初のアダムを、ユダヤ神秘主義では「アダム・カドモン(原始の似姿)」とも呼びます。

 「神は自分のかたちに人を創造された」ということから、神が自分の姿を「見たい」という「意志(will)」のあらわれた姿として、描かれるんですね。

 そのため、神の無限の光によって照らされていて、ピッカピカに光っている巨人だそうです。

 また、このアダム・カドモンは、その体のうちに人間の全ての魂を内包していたとされるんです。

 そして、彼のうちに人間の全ての魂の原点、つまり旧約聖書の「生命の実」を育む「生命の樹」があるとしているんですね。

 すげぇな、アダム・カドモン。笑

 その後、神が土に生命を吹き込んで、第二のアダムであり最初の人であるアダム(・ハリション)が作られるわけです。

「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」(創世記2:7)の部分ですね。

 つまり、アダムは土から作られることによって、魂の器(ガフ)となって、生命の木から分たれ、魂を入れられることで生きた者になったわけです。

 そして、ユダヤ神秘主義では、人間の魂は「生命の樹」を原点として、生命の木が開花することによって生まれる、というように考えられるようです。

 生命の花によって、人間としての生命の時間を与えられるわけですね、ミヒャエル・エンデの『モモ』にも通じるところがありますね。

 で、お腹の子供に魂を持ってくるのが、天使ガブリエルで、キリストの母である聖母マリアの『受胎告知』というテーマで数多くの絵画が残されていたりします。

 ということで、『エヴァ』(新劇場版)を見た方は、何となくどれがどの設定なのか気付かれた方もいると思います。

 ただ、全ての魂の原点である「生命の樹」について、もうちょっと触れておいた方がいいと思いますので、解説していきます。


6. 生命の樹

 ユダヤ系の神秘主義の一つ、カバラ思想において、エデンの園にある、「生命の実」を育むことができる「生命の樹」について絵があります。

 カバラによると「生命の樹」は、別名「セフィロトの木」とも呼ばれ、幾何学的な図や、逆さまになった木や、多重の同心円(イグリム・サークル)の図として描かれたりします。


 これは、逆さまになっている木にも代表されるように、これは生命の根っこ、つまり神へと遡ることができる、という考えによるものなんですね。

 そしてまた神様によって、「生命の樹」は以下の3段階によって作られている、と考えられています。

 まず、初めにアインがあった。アインとは(神の)無を意味し、0と書かれます。

 次に、アインは、アイン・ソフとなった。無限(捉えられない無)となったとされ、00とも書かれます。

 そして、アイン・ソフ・オウル、無限の光になったとされ、000と書かれます。

 で、このアイン・ソフ・オウル(ain soph aur)から、生命の初めである要素(セフィラ)である「ケテル(王冠)」が生まれた、と考えられているんです。

 このケテル(王冠)が、先のアダム・カドモンそのもの(または誕生)だと言われます。

 この無限の光によって、アダム・カドモンはピッカピカに光っているんですね。

 そして、ケテルから、10個の「セフィラ」と呼ばれる要素が、それぞれを繋ぐ22本の線「パス」によって発生し、「生命の樹」になったと考えられているわけです。

 また、ケテル(王冠)という言葉から、いわゆる天使の頭の上にある「光輪」というイメージも生まれたのかもしれません。

 なお、「セフィラ」とは「数」や「連なり」「発生」などの意味を持っています。

 また、生命の樹の「セフィラ」は、それぞれが天使や惑星、物質の変化、鉱石などに呼応して描かれたりもします。

 そして22本の線「パス」もヘブライ語やタロットカードと対応するように描かれたりもします。

 ただ、これら一個一個を解説していると、それこそオカルトも入ってくるし、めちゃくちゃ長くなるので省略します。

 なお、エヴァではこの生命の樹からなる生命の実を、使徒の心臓である、S2機関(よくわからない無限エネルギー機関)としているようです、


7. 心の壁

 そして、西暦2000年、「白い月」から、ロンギヌスの槍を使ってS2機関を引っこ抜こうとしたが失敗、セカンドインパクトが起きたようです。
(旧劇場版の冒頭より推察)

 ちなみに、このS2機関というものは、A.T.フィールドというバリアを出すことができるようです。

 A.T.フィールドとは、アンチ・テラー・フィールド(Anti-terror field)とされており絶対不可侵領域という意味です。

 このA.T.フィールドを持つ使徒というのは、「単独で存在している準完全生物」なので、外からの影響を最大限に抑えているわけです。

 例えば、人間にとって、ウイルスというのは「他者」なので、その他者によって身体が侵されるわけです。

 しかし、もしも単独で存在できる生き物がいた場合、こういう他者を完璧に排除する必要があります。

 そこで、最強のバリアを持っているという表現になるのでしょう。

 一方、作品内でA.T.フィールドは「心の壁」とも呼ばれており、人間においては「知恵」の部分、言うなれば他者と「意識」を共有できない理由として表現されています。

 そして、この心の壁と取っ払えるのが、『エヴァ』の使徒や人間の原始とされるアダムやリリスが持っているとされる、「アンチA.T.フィールド」です。

 名前のまんまですが、A.T.フィールドを溶かすことができるという、すごい機能で、心の壁だけでなく物質的な身体すら融かしてしまうことができるという優れものです。
(なお同一量のA.T.フィールド同士であれば、バリアを中和し、相殺できるようです。)

 この機能によって、ありとあらゆる人間を生命のスープ(原始の海)や、集合無意識そのものに還元することまでできてしまう。

 この原始のスープや集合無意識という、原始の状態に戻ったところから、自らの意志によって世界を再構築しようとするのが、人類補完計画なわけです。

 まさに新しい世界の神様になるわけですね。

 ということで、原始のスープや集合無意識となるためのに生命の実を持つアダムと、知識の実を持つリリスが必要だったわけです。

 なので、EVAに乗り込むキャラクターの名前にも、「シンジ(神児)」や「レイ(0)」など神を示唆する言葉や、苗字にも「惣流」「綾波」「渚」「碇」「式波」など、海のイメージが入っていたりするんですね。

 彼らとEVA、そしてロンギヌスの槍などを触媒にすることで、アダム・カドモンのようになることができ、「ガフの扉(バラルの門)」と呼ばれる「魂」が生まれる場所に向かうことができる、という設定なんです。

 ただ、ここら辺の細かい設定は、そこまで整っているわけでもありません。

 とりあえず、「アダム・カドモンのようになる」というのが大前提であり、そこに到達する方法は方法はいくつかある、ぐらいの描き方をされています。

 なので、いろんな要素やアイテムが出てくるわけですね。

 例えば、ロンギヌスはその槍でキリストを突いたことによって、返り血で目が見えるようになり、聖ロンギヌス(使徒)になったことから、ロンギヌスの槍が使われたり。

 また、「バラル(混乱)の門」とは、ネブカドネザル2世が作った「バベルの塔」という神に至る塔への門であるので、ネブカドネザルの鍵(多分、自己進化させるアイテム)を使うことで、神へとたどり着く人間(使徒)になれる、とか。

 そして、マイナス宇宙(虚数空間)は...(以下略)とか。

 とにかく伏線が多すぎる上に、微妙に曖昧な状態であるものも多いので、考察する方も面倒ったりゃありゃしない。笑

 とりあえず、エヴァを解説するための下準備が整いました。

 それではそろそろ本編に進みたいと思います。

 ただ本編に入っていくと言っても、一個一個解説していくのではなく、『エヴァ』の見方について、解説したいと思います。

 と言うのも、アニメなんて自由に見るものですが、エヴァに関しては作り方がかなり独特なんです。

 これは、1995年から始まったエヴァのテレビ版についても、同じです。

 テレビ版に関しては「フィルムブック」とか、庵野監督やスタッフのインタヴューが収録された『パラノ・エヴァンゲリオン』『スキゾ・エヴァンゲリオン』なんかを読むと、大体どういう作りだったのかが分かります。

 そこでも言われていることですが、エヴァは庵野監督の「私小説」みたいなものなんですね。

 ありていに言ってしまえば、テレビ版の『エヴァ』は、アニメ出資会社と制作会社の関係や、また監督としての自分と自分の内面の精神の動きを「自身が理想とするロボットアニメ」を題材に展開したという、とても奇妙な作品なんです。

 なので、『エヴァ』自体が、心と人間関係の話になってしまっているんですね。

 1995年のテレビ版(また旧劇場版)では、当時の社会的状況もあってか、「分かり合えないものとしての他者」「個人主義の行き着く先(ジレンマ)」みたいな「心」を描いています。

 そして、分かり合えなさや、個人主義の弁証法的融合として「人類補完計画」というアニメ表現が出てきたようです。

 そのため、エヴァを語るということは、アニメ表現について語ること、そして「作品を創る(アート)」ということについて語るということなんです。

8. アートとは何か

 アートそのものを考えていくと、どうやってもアートは「何らかの模倣」である要素を含まざるを得ません。

 旧約聖書でも「神は自分のかたちに人を創造された」などというように、そもそも人間は遺伝子から逃れることはできず、どうやってもコピーやパロディ、オマージュというものから抜け出せない。

 こうやって私が文章に書くという行為、これも日本語であるので、日本語の表現という枠組みからは外れられないし、必ず何らかの影響を受けたスタイルとか、文章の書き方とか現れざるを得ないんですね。

 例えば、とある画家が静物画を描くとして、意味不明な抽象画風に描いたとしても、それでも静物画やその静物自体を抜くことはできない。

 もちろん、対象から逃げたり対象を抜き取ったアートなんかもありますが、それらも結局は「対象の無さ」というものから影響を受けているわけです。

 そのため、アートもすべからく、何らかの影響からは逃れられないわけです。

 かと言って、「それではこの作品はオリジナルかコピーか?」という問いは、「鶏が先か、卵が先か」みたいな論争と一緒であり、あまり問題ではありません。

 アートというものにおいて、オリジナルやコピーというのは、あくまでタイミングでしかないんです。

 と言うのも、アートは、それが『時代性と技術面の交差する特異点として発生し、それがリアリティのあるものとして、世間に受け入れられたか否かによって、アートと評価される』からです。

 例えば、もし今誰かがキュビズムという手法で油絵を描いたとしても、ああ、それはピカソがやったやつだね。ってなりますね。

 過去にあった手法というのは、今ではただの模倣にしかならない。

 しかし、現代で3Dプリンターなんかを駆使して、リアルな造形でキュビズムの手法で立体的に描いたとしたら、「おお、これはアートだ」って感じる人は多いでしょう。

 逆に、アナログに徹して、例えば針の先端に油絵の具をつけて、超細かい点の集合みたいに静物画を描いていって、まるで人間の限界を超えるかのような作品になると、アートだ!って感じるわけです。

 つまり、とにかく自分が影響された「もの」をひたすらコピーしたり模倣したり、そこからどうしても自分が手放せない「もの」を表現していくこと。

 これがアートであり、「ものづくり」の原点でもあるんです。

 すると、アートというものは、そういう時代性と技術面における(場合によっては誰もやっていない)「ものづくり」として、社会に「現れた」もの、とも言えます。

 この社会に「現れる」ところが大事で、例えば「アウトサイダーアート」なんかもあるんですが、社会に隠れているアートはアートじゃないんですね。

 隠れていたままでは当然、評価まで至らないため、出てきたことによって、また、出てきた「もの」がリアルであると評価できる時代となるからこそ、「アウトサイダーアート」として評される。

 このように、社会に「現れる」ことがとても大切で、エヴァはまさに評価されるものとして、時代性と技術面においても、ピッタリと社会に「現れ」たんですね。

 そしてまた、その作品のうちに「熱意」「理由」があったからこそ、リアリティのあるものとして社会に広まり、新しいスタンダードとして定着したのでしょう。


9. 補完と私小説

 作品を作る「熱意」「理由」こそ、自分にしかないものです。

 そのため、個人が作るアートは、自分語りになってしまうことが非常に多い。

 じゃあ、自分語りをやるぞ!ってやる人は少ないんですね、というか簡単にはできない。笑

 何故なら、自分というものを理解することが最も難しいから、そして個人というものをそのまま曝け出したところで、リアリティはないからです。

 例えば、コピーというものは可能です。

 最近では遺伝子すら人工的にコピーできますし、アニメもデータとして取り取り込んで、そこから絵として描けば、再現も可能です。

 でも、コピーはただのコピーです。

 そうではなく、なぜコピーしたのかという理由や、コピーするだけでは、どうしても納得できなかったところを「補完」することが最も重要なんですね。

 この「補完」行為しか、オリジナリティとは言えない部分なんです。

 庵野監督が、いちいち「シンゴジラ」とか「シンウルトラマン」とか、頭に「シン」をつけているのは、まさに彼なりの「補完」なんですね。

 クラシック曲なんかまさにそうですが、クラシックのほとんどの演奏は、作曲家が作った曲を前提に、どう表現するか、言ってしまえばそれだけなんです。

 ひたすら作者をリスペクトして模倣した上で現れる「どうしようもなく自分である」もの、その表現の「仕方」こそオリジナリティなんです。

 そのため、この表現の仕方を突き詰めていくと、自分というものが見えてくるんですね。

 なので、アートというものは、結果的に自分探しになってしまうんです。

 ただ、アーティストからすると、それを公開するわけですから、とても恥ずかしいことであったりします。笑

 もしくは、自分を切り崩していくことになったりするので、作ることがとてつもなく辛かったりする場合もあるし、かなり疲れます。

 これをとことん突き詰めて、しかも他人まで巻き込んで、アニメ作品として世に出したのが、庵野監督の『エヴァ』でした。

 以上のような意味でも、『エヴァ』は、私小説アニメなんですね

 なので、エヴァでは「巨大ロボット誰が乗る!?」問題についても本気で考えています。(『パラノ・エヴァンゲリオン』より)

 巨大ロボットに乗ると言えば、やはり『機動戦士ガンダム』が有名ですが、ガンダムが最も斬新だったのは、巨大ロボットに乗るまでのシナリオがスムーズすぎるんですね。

 例えば、いきなりロボットが現れて、地球を救うために俺に乗ってくれとか言われても、普通は誰も乗りません。

 「オッケー!」とか言って乗ったら、リアルじゃないんですね。「いやいや、疑うだろう普通」って思っちゃうわけです。笑

 疑われたらリアルじゃなくなるので、どうしてもコメディになってしまうんです。

 じゃあ、どうやってリアリズムを出すか、これが非常に難しい問題で、ガンダムでは、圧倒的にスムーズに主人公を巨大ロボットを乗せている。

 『エヴァ』では、これをコマ割り単位で、つまり0.1秒単位で、その流れを研究したそうです。

 そして、「巨大ロボットに乗りたくないのに自分から乗ってしまう」という新しいパターンを作ったわけです。

 これはエヴァ以降、主人公が巨大ロボットにいやでも乗ってしまう理由として、定番のスタイルにもなりました。

 そして、かつて最も問題となったテレビ版『エヴァ』の最終二話も、当時のアニメとしてはあり得ない手法だったんですね。

 というのも、普通は最終回に向けて伏線を回収していくのが普通です。

 もしくは、解決するための弁証法的な解決策とか、超人(例えばスーパーサイヤ人)とか、とにかくエンターテイメントとして、ストーリーをまとめる方向に進みます。

 でも、エヴァは伏線回収をやめたんですね。

 そして、ストーリーをまとめることもやめた。

 その上、ずーっと「逃げちゃだめだ」って言ってた主人公を、逃すんです。

 「逃げていいよ」って。

 もちろん、「逃げていいよ」なんて個人的な問題解決方法であり、その上、アニメ表現として誰もやったことがない手法で公開するなんて、あり得なかったんですね。

 そのせいか、『エヴァ』変に影響された作品が増えたとも言われました。

 アニメの業界においては、自己意識について赤裸々に語ったエヴァが流行ったことによってか、「ポストエヴァンゲリオン症候群」「セカイ系」とまで呼ばれる、奇妙に価値を転倒した作品が増えていったんですね。

 この「セカイ系」というのは、ヒロインの動向によって世界の命運が決まるというストーリーです。

 パソコンゲーム(通称「AVG」)でとても多かったパターンなんですが、とにかく「世界の英雄に愛され、英雄が死んだり力を失うことによって自分も喪失感ややるせなさを味わい日常に戻る」みたいな作品が増えたんですね。

 いやいや、むしろ物語はそこから始まるだろう、と思いますが。笑

 有名どころでは『最終兵器彼女』とか、『涼宮ハルヒの憂鬱』とか、とにかく、生きる目的や理由を異性や他者にして、主人公は分析ばかりやってるという系統です。とにかく、生きる目的や理由を異性や他者にして、主人公は分析ばかりやってるという系統です。

 作品としては面白いんですが、言うなれば、オタクのオタクのためのオタクによる作品なんです。

 つまり、オタクな私小説アニメが増えちゃったんです。

 もちろん、先述したようにアートというものは自分探しなので、どうしても私小説的になるんですが、私小説にフィクションという仮面を被せてしまうと、作品に自分の責任を転嫁しただけ、みたいに見える。

 そもそもアニメは商売でもあるので、売れればいいんですが、売った者としての責任はどうするんだ、という問題も出てくる。

 世間に予算と収益付きで公開してしまったんですからね、ちゃんとケジメやツケは返さないといけない、そう考える人もいるわけです。

 ここのケジメの付け方っていうのは、ジブリがとてもしっかりしていて、例えば、宮崎駿ワールド大爆発であったとしても、他のプロデューサーの皆さんが、ちゃんとカヴァーしていたりするようです。

 確かに、ジブリでは、「もうまた宮崎駿さん暴走しちゃって」って思う作品は多いんですけど、最終的にエンターテイメントとしてしっかり成立させているので、評価が高いんですね。

 一方、庵野監督はその真逆を行くことによって、「エヴァ」という作品を世に出し、時代の寵児たりえたんです。

 言ってしまえば、とにかくやり切る、それが庵野監督のスタイルでもあります。

 そして、そんなエヴァ(テレビ&旧劇場版)を超えるため、改めて自身の作品を「補完」するものとして、新劇場版を作ったわけです。

 実際インタヴューでも言ってますからね、「エヴァで興行収入100億いったら俺の勝ちだ。」とか。

 いやいや、それお前の個人的な問題かよと、言わなきゃいいのに。笑

 まさに、私小説を私小説によって、しかも世間まで巻き込んで越えようとするなんて、もはや、オタクの極北とも言えるかもしれません。

 では、どうやって私小説を私小説によって超えるか。

 その触媒は、ダンテの『神曲』でした。

9+1. ダンテと「弱さ」

 名作の裏にダンテの『神曲』ありと言われます。

 ダンテの『神曲』は、イタリアでは中学校の教材とされていたり、キリスト教を学ぶに当たって非常に使えるテキストだったり、文学的にも優れた詩であったり、ありとあらゆるアートに影響を与えていたり、とにかく名作中の名作と言われています。

 でも、なんでこうダンテの『神曲』ばかり取り沙汰されるのか、私、昔とても考ました。

 冷静に考えると、ダンテの『神曲』なんて狂気の沙汰です。笑

 だって、ダンテって、すでに妻子持ちなのに、初恋の君をずっと忍んでいるんですよ。

 しかも、初恋の君であるベアトリーチェとは、昔出会っただけだし、その後もチラ見しただけなのに、ずーっと愛の詩を書いてるわけです。



 一方で、妻のジェマには一切書いてないっぽいし、なんて〇〇野郎なんでしょう!笑

 加えて、ベアトリーチェが24歳で夭折したこともあってか、『神曲』では、自分を救ってくれる女神みたいな存在にまで昇華させているんですね。

 このように、初恋の君を女神やお姫様のように扱うというのは、いわゆる「宮廷愛 courtly love」と呼ばれる中世で流行った詩のスタイルです。

 要は「お姫様のために騎士としてやるべきことを行い(詩という作品を通じて)愛を示す」という、精神的な「愛」について、詩を通して語り合う形式のことです。

 言ってみれば、ラブレター大作戦!ってことで、ちょっと高尚なところが『源氏物語』などで見られる「歌」の送り合いにも似てますね。

 『神曲』では、「宮廷愛」スタイルに加えて、ダンテ本人が憧れの詩人であるウェルギリウスに連れられて、地獄めぐりしながら、過去に神に不敬だった人々や政治家が痛い目にあっているのを憐れんだり、過去のキリスト教の聖人から教えを受けながら進んでいくという形式を取ります。

 そして、最終的に35歳の詩人のオッサンが、最終的に初恋の君によって救われる、そんな物語です。

 そのため、どう考えても、ちょっと気持ち悪い。笑

 この気持ち悪さは、ダンテのとてつもない人間臭さから来るんですね。

 ダンテは『神曲』で、キリスト教のことを描きながら、ひたすら人間のことを描いたわけです。

 人間の争いや、愚かさや、欲望、そういう「弱い」部分をありとあらゆる偉人や現実世界から見出して描いているんですね。

 また、死後、自らの「弱さ」のせいで地獄や煉獄に延々といるハメになってた人を描くことで、その現象を見ることしかできない自分の「弱さ」をより際立たせている。

 つまり、これは、まさに究極の私小説なんですね。

 『神曲』がノンフィクション文学が作られる嚆矢となったと言われますが、とても納得できる話です。

 人の弱さを浮き彫りにしながら、そして自分の弱さも表していく、だからこそ、自分の弱さの克服をどうするか、これが主題になるわけです。 

 キリスト教が全盛期だった時代は、神という「絶対性」があったからこそ、弱さの克服を「神」というものを通して克服することができた。

 つまり、自分と言う存在が作られた揺るぎない根源(神)があるからこそ、それを根拠に生きるというシンプルな図式が作れたんですね。

 しかし、神という絶対性が揺らいだ現代においては、自分の弱さの克服をどうするか、これが最も大きな課題となったわけです。

 そこで、哲学者や文学者は、自らの「弱さ」を論理や存在に問うたり、精神に問うたり、国家や民族に問うたりしてきました。

 もちろん、問うだけで「弱さ」そのものは消えるわけではないので、ペンという武器を使い、本(やアート)というメディアを通して、自分の納得のいく理論や言葉を紡いでいきたわけです。

 そのペンや本が「デジタル」となって誰もが使えるようになった現代、人類史において最も「書く時代」となりました。

 誰もが、インターネットやSNSを中心に、自分の納得のために言葉を発信し続けており、天文学的量の文字数が世界を飛び回って、自身を救済しようとしているんです。

 そう考えても、やはりダンテの『神曲』は私小説の原点であり、最も重要な作品の一つであると言えます。

 そして『エヴァ』もまた、『神曲』の用語を取り入れているのみならず、『エヴァ』は、ダンテが描いてなかったことを描いたんです。

 まさに、素晴らしき逆転の発想でした。

00. 救済

 かつて「救済」は、神によってこそ行われるものでした。

 仏教が浸透している日本においても、「救済」は、あの世や極楽浄土としても表現されてきました。

 そして、神という存在が薄れてしまった近代、いわゆる「神が死んだ」後には、国家や科学、主義主張と言う新たな絶対性や正当性によって、人々は、自分の救いを見出してきました。

 しかし、それらも全て上手くいかなかった。

 というのも、論理や科学それ自身が、自らを絶対的ではないことを身をもって証明したからです。

 そして、現代、人々は自らの救いを昔のように「小さな社会」に求めるようになった。

 例えば、コミュニティやSNSなど、改めて自らを「承認してもらえる空間」を再び見出すようになった。

 しかし、インターネットやSNSはその匿名性とヴァーチャル性、そして拡大性によって、あたかも自分自身が『大きな物語』であるかのように、言うなれば、自らが神であるかのように、自分をメタ化するための格好の手段となった。

 そしてまた、自身をメタ化することによって、実際には「弱い」自分から逃げたり、誤魔化したりするための手段となり、論理武装や仮想現実を扱って「強い」自分を演じることもできるようにもなった。

 もちろん、神や絶対性のなくなった世の中では、自身の「力」で自分の存在を周囲に承認させることや、藁をも掴む思いで自分の「城」を作り上げることも、必要なことです。

 しかし、それでもやはり人は人によってしか救えない。

 であるならば、人と人がいかに共生し、救い救われていくのか、結局それが問題になります。

 では、いかに人は人によって救われるのでしょうか?

 おそらく、それは「可能な限り多くのリアルな他者を自分の中に常にあらしめるために、目線を広く持ち続けるために行動を続けること」しかないと思います。

 かつて、ダンテは、ベアトリーチェをして彼女に神のような絶対性を持たせることによって、自分の文学の「城」を作りました。

 そんなダンテが、ただの私小説的作品として終わらなかったのは、彼の目線が、歴史とそこにいた人物たちに向かっており、逆説的に自分の立ち位置を学ぶことができたからです。

 しかし、一方で『神曲』に描かれている歴史上の人物たちからすると、「オイ、ちょっとまてダンテ。なんで貴様に俺たちのあの世での生活を決められないといけないんだ?」って思うはずです。笑

 未練タラタラのオッサンに、「あなたが犯した罪によって苦しみを受けているとは、ああなんて哀れなんだ!」とか書かれたら、そりゃ腹立つでしょう。笑

 ここには、論理が持つ暴力性とも言える、「排他性」があります。

 論理(や科学)というものは、どうしても「暗黙の了解」や「論理の一方向性」とも言える「当然の壁」を作らざるを得なくなります。

 とあるコミュニティや論理というものは、「当然の壁」があることによって、そのコミュニティの結束力を高めます。

 例えば、日本語という言語や、方言、専門用語などによって、そのコミュニティとしての結束力が高まるのと同じです。

 
これは、夫婦において「あれ」と言えば分かり合えることみたいに、強固な関係性ができている根拠や証拠ともなります。

 ダンテの『神曲』も、口語としてのイタリア語を使い、なおかつイタリアの偉人たちを「当然のように」語ることによって、イタリア国の文学として高めたわけです。

 だからこそ、さも当然のように最愛の女性を神にまでかこつけて、まるで当然のように自分の弱さを正当化していったわけです。笑

 しかし、一方で「当然」という意識は、「バカの壁」(養老孟司)を作ることになります。

 例えば、「そんなことも知らないの!」「ああ、それ知ってる」などの言葉がありますが、それは、相手に対する理解を停止することでもあり、相手と自身を差異化することでもあり、一定の世界で自分の優位性を主張することでもあります。

 しかし、世の中には、「当然」なんて言葉では済まされないことや、「知ってる」つもりで全くわかっていないこと、また、どうやっても理解できないことが沢山ある。

 例えば、出産の痛みを男はどうやっても理解できない。むしろ、実際に体験させたら男はショックで死ぬ、とか言われるぐらいです。笑

 でも、その痛みを目の前にすることはできる、その痛みを前にして、例えば背中をさすってあげたり、声をかけてあげたりすることはできる。

 そして、そんな行為をして初めて、「知れる」こともあるわけです。

 そこに、ほんとうの体験としての自分があるんですね。

 また、自分がいまここにあるという現象が成り立つまでに、数多くの人によって積み上げられたほんとうの「歴史」もあるんです。

 今では、当然のように自分が生きていて、日本語があって、日本があります。

 しかし、それらは今まで生命を繋いできた天文学的数の人々によって成されたものです。

 例えば、人の親は必ず2人なので、親をたどって行けば、たった50世代(1000年前)遡るだけで、2の50乗、1,125,899,906,842,624人もの親がいる。

 ホモ・サピエンスが生まれたというのを50万年前とした場合、人類史の500分の1でこれだけの人数がいるわけです。

 そのうち、誰かが1人でも欠ければ、自分はいないんです。

 この1千兆をはるかに超える、全ての人の莫大な「意志」によって、私たちは生き、生かされている。

 私たちの祖先が、過去の人々や、そして生命を産んだ自然に「神」を見出したのも、まさにあり得ることでしょう。

 また、「祖先」や「人々」というものは実感として、イメージとしてしか感じることしかできないものです。

 そして、このように言葉だけでは不可能な「理解」と「納得」は、行動や行為の繰り返しによってしか知ることができない。

 そして、まさに言葉を超えた理解や納得を通すことによって、救済があるんです。

 かつて、人はこれを「奇跡」と呼びました。

 自身と他人を救うには、かつてキリストや仏陀が行ったように、「可能な限り多くのリアルな他者を自分の中に常にあらしめるために、目線を広く持ち続け、行動を続けること」これしかない。

 ダンテのように「歴史」の偉人ばっかり出したとしても、想像の女神を讃えても、それは論理を超えない。

 もちろん彼の作品は、きっと自身の心を救済したでしょうし、今まで多くの人々の心も救ったことでしょう。

 もちろんキリスト教全盛期の時代においては、『神曲』において彼らを罪人扱いするのは、仕方ない表現だったかもしれない。

 しかしそれでも、彼が描いた偉人たちには、『神曲』では見ることができない、リアルに生きる人間を救ってきた人生の積み重ねがあるんです。

 人間には必ず歴史がある、人生は常に積み重なったものとして、そこに「ある」んです。

 だからこそ、『エヴァ』も新劇場版において、生きる人々を描いた作品となったのでしょう。

 やはり、リアルな自分を救うには、まさに他人や自身まで続いてきた「繋がり」によってしか成し得ない。

 なぜなら、リアルな他人を知ることによって初めて、「自分」を知れる、つまり自らの「分」を「わきまえる」ことができる。

 これこそ、まさに「自ずから由(よ)るところを知ること」、「自由」であるための「方法」と言えるかもしれません。

 さて、新劇場版エヴァでは実際にどんな救済が描かれ、結末が待ち受けているのでしょうか。

 それはどうか本編にて、ご確認いただければと思います。

 長文、お付き合いいただき、心より感謝申し上げます。

 ありがとうございました。

(終論)

<以下、参考文献。シリーズものは一部省略。>

etc.

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