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客観的視点が生む言葉の距離と味わい:岡田由季句集『中くらゐの町』

中くらゐの町の大きな秋祭

街と町。同じ「まち」でもこの二つは違うと思う。
大雑把にいうと、街は都会のイメージ、町は都会以外のイメージ。
表題句の町は「中くらゐ」とある。
いろいろな意味で全体的に中位なんだろう、規模や人口も交通も利便性も。
もしかすると、普段は取り立てて個性が無い場所なのかもしれない。
その町が秋、大きな祭を開催する。年に一度のハレの行事。
中位の町がにわかに大きく見えるような、誇らしい瞬間。
そして、その場所で暮らし続ける作者。
町の一員としてこれからもここで淡々と時間を重ねていく―
そんな呟きが聞こえるかのようだ。

私は作者を知っているので、この町が何処で祭は何なのかがわかる。
でも、具体的な情報がなくても、この句を読めば読者それぞれが知っていたり経験のある場所や行事が自然と思い浮かぶのではないだろうか。

一読、平明で親しみやすい内容。季語が生きた十七音。
だが、この句が「平明で親しみやすい」だけで終らないのは「観察力」が効いた言葉「中くらゐ」が用いられている点にある。
自分の町を「中くらゐ」と表現する冷静さ、客観的視点。
言われてみれば「私の町も中位の規模かも」とは思い至っても、普段からそういう視点で物事を見ているだろうか。
また見ることはできていても、果たして「中くらゐ」という措辞を自分の言葉として掴み取り十七音の中に活かすことができるだろうか。

本句集には、表題句以外にもさりげないのだが作者の客観的視点に基づく表現が光る作品が並び、ページを捲るほどに「なるほど!」「うーん、そうか……」という新鮮な発見が随所にあって楽しい。

全五章より、各章から二句ずつ感銘句を。
(俳句結社誌『炎環』で過去に鑑賞した作品は今回外しています)

根を密に伸ばし医局のヒヤシンス
少しづつ家族のずらす扇風機

犬とのみ行く場所のあり草紅葉
自宅から土筆の範囲にて暮らす

鳥の巣に帰り大きく見える鳥
丹頂の前にエンジン冷めてゆく

束にしてわづかの魔力雪柳
歌仙巻く女たちみな素足かな

秋思ふと胞子を抱いてゐるやうな
白魚に少年の声あててみる

どの句も過不足ない表現で、隙が無い。
巧みな技術を用いながら、完成形はすべらかで端正だ。
季語が的確なのはもちろん、季語以外の言葉が独創的かつ言いえて妙で、的確な位置に配されている。トランプを切る時の「しゅぱん! しゅぱん!」という音にも似た鋭さを伴った配置で、読んでいて小気味よいほどだ。

私は少し前から俳句は季語との相性が大事なのはもちろんだが、それ以上に「季語以外の言葉として何を用いるか、そしてその言葉を十七音のどこに入れるか」が大事なのではないか、と考え始めていた(カルチャー俳句講座の句会などでは、最近たまにそんな話をしている)。そんなときに本句集を読み、我が意を得たりという思いがした。

それもまた、前述の「客観的視点」があってこその技だろう。
自分の句を距離をもって眺められなければ、上記の作品に使われているような独特の視点による表現や言葉の選択は出てこない。
また、全体的に静かな作品が多いが、作品に対する距離があるゆえに言葉や表現にどこかとぼけているというか、おかしみがある。
それが本句集および作品を味わいのあるものにしている。

中くらゐの町から、これからどんな世界を十七音にしていかれるのか。
興味は尽きない。

ご恵贈ありがとうございました😊





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