ここではないどこか
ライブカメラというものが昔から好きである。
会社勤めをしていた頃、たとえば営業時代、とてもしんどい時期なんかは
かならずPCの別ウインドウに小さく、どこかのライブカメラを掲出していたものだった。
ポチポチとうだつの上がらない企画書を作っては、時折そのウインドウを見やり
湘南の海だとか、山頂の展望台だとか、国際宇宙ステーションから見た地球だとかを少しの間だけ眺める。
観光地のライブカメラなんかには、ひょいと気楽に観光している人が映り込んだりする。
そういうのを見て「ここではないどこかで、楽しい時間を過ごしている人がいるんだなあ」なんて
おセンチというか中二病というか、そういうぬるい感情を湧き起こし、また張り詰めた作業へ戻るのであった。
私が「ライブカメラが好き」といっても、あまり理解してくれる友人はいない。
たとえば「ライブカメラで見ている場所に行きたいの?」と聞かれても、かならずしも行きたいというわけではない。
宇宙飛行士になりたいと思ったことは一度もないし、ナミビアの砂漠でガゼルと駆け回りたいわけではない。
雪で埋まった山小屋になんか死んでも行きたくないし、モンキーセンターや混雑しているお寺の境内に飛び込むのも御免だ。
子どもの頃から夢想しがちな私は、ただただ先に書いたように
「ここではないどこかで、楽しい時間を過ごしている人たちがいる」
「私がいなくても、世界には美しい場所があって、人がそれを愛でることができる。私もいつかその気になればそこへ行ける」
なんて気持ちになりたいだけなのだ。
思春期を荒れた郊外で過ごした私は、いつもいつだって
「世界はもっと広いはずだ」「ここではないどこかに出ていきたい」
と願っていた。”念じていた”という方が合っているかもしれない。
そういう気性が心身にべったりと貼り付いていて、
しあわせに暮らしているいまも
ライブカメラなどで「ここではないどこか」を求めさまよっているのかもしれない。
というわけで、ライブカメラは、コロナ禍にも活躍してくれた。
実際に行動するよりむしろ夢想する方が好きな質なので
私は毎朝4時半に起きて、いろんなライブカメラを見てうっとりしていた。
ある日は富士山の見える住宅街
またある日は無機質な豊洲のタワマン群
雪に埋もれた富山の山小屋
ヴェネツィアの人気のない橋
アメリカ西海岸のサーフスポット
誰もいない東京駅丸の内口
早朝はどこもさびしい。誰もいない。それがいい。
そういえば私が過ごした思春期の街は、いつもあまり人がいなかった。
もしかしたらあの街を、ちょっとだけ恋しく思っているのかもしれない。
今度ライブカメラがないか検索してみよう。
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