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史実を語る『底力』

偶然にも、5月20日の今日。
映画『タクシー運転手』を観た。

舞台は、1980年5月に韓国の地方都市である光州で起きた「光州事件」。
主人公のタクシー運転手が、ドイツ人記者を乗せ、ソウルから光州までタクシーを走らせたのが、20日だった。

え、ちょうど今日と同じ日?
80年って、そんなに昔の話じゃないよね?

お粗末ながら『光州事件』について、殆ど知らなかったわたしは、物語が進むにつれ、史実に基づいたその殺戮とも言うべき一日を、市民が軍人に殴られ銃で撃たれ道端に捨てられる光景を、信じられない思いで見詰めた。

まさか、そんな、どうして。

詳しくは映画の内容に抵触してしまうので控えるけれど、当時の光州は立ち入り禁止区域で、電話も不通、陸の孤島と化していた。
ソウルまでタクシーで数時間で行ける距離なのに、ほかの町の人々は実際に何が起きているのかまったく知らない。テレビも新聞も軍の統制を受け、真実を伝えていないのだ。

まさか、そんな、どうして。

わたしは、何度も頭のなかで繰り返した。

まさか、そんな、どうして。

タクシー運転手とドイツ人記者の、命を賭した行動が圧倒的な強さと力を持って、訴えかけてくる。

これもまた偶然なのだが、3日前に映画『チャーチル』を観たばかりのわたしは、兵士をどれほど犠牲にしても、たとえ本土決戦になろうとも最後まで戦い抜くというチャーチルの姿勢に、もやもやとしたものを感じていた。たしかにゲイリー・オールドマンの芝居は良かったけれど、戦争の暗部に目をつむって、大義名分を礼讚するような表現は違うんじゃないか、と。

『タクシー運転手』を観終わって、鷲掴みにされた心に真っ先に浮かんだのは、映画の「底力」だ。理屈抜きの力。単純に、シンプルに、歴史を語る強さ、と言うべきだろうか。

史実を語るドラマには、この「底力」が必要なのだ。

韓国では光州で起きたことそのものが、今も生々しいのだろう。
作り手の姿勢に、役者の表情に、悲惨な歴史と真っ向から向き合う気概を感じた。

彼らの気概こそが、底力なのかもしれない。

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