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小夜子さんと純愛について

今日は、姜尚中(カン・サンジュン)氏の『大人の文学〜夏目漱石の世界』と題した講座へ出かけた。全三回の第一回は「男と女」がテーマだ。

小学校6年の頃だったと思う。何度となく『日記』を書くことに挫折していたわたしは、「誰かに宛てた手紙なら書けるかも」と、“小夜子”という架空の人物に宛てた、手紙のような日記を書いていた時期がある。書いていた時期、というとけっこう続いたようだが、その後何年かして当時のノートを見つけたら、数ページほどで終わっていた。ほとんど三日坊主な日記だったけれど、「小夜子さんへ」と宛てたその女性は、夏目漱石の『虞美人草』に出てくる「小夜子」だ。

どうして彼女にしたのか、よく覚えていない。勝ち気な藤尾より、大人しい小夜子のほうが、思春期の女の子の悩みを聞いてくれそうな気がしたからかもしれない。
当時のわたしは『坊っちゃん』や『我輩は猫である』よりも、『それから』や『こころ』に出てくる、男女の不可思議な物語のほうが好きで興味津々だった。不可思議、だったけれど、彼らの恋愛はとても魅力的だった。

そんな、恋愛なんてまったくわかっていなかった(当たり前だけど、今思えば可愛らしい)気持ちを思い出しつつ、憧れの姜さんのお話を拝聴した。

姜さんは、漱石の作品は『不倫小説』だという。

最近のマスコミやネット上の不倫糾弾について、「公人や芸能人が雲の上の人ではなくなった」からではないかと言及し、「純愛とは?」と投げかける。

そして、純愛は、ロミオとジュリエットのように「障害があって初めて成り立つ」「達成、成就されないからこそピュア」で、漱石の時代の不倫は、現代よりもっと障壁の多い時代だった(家父長制も姦通罪もあり、階級も存在していた)と示唆していた。

「不倫は純愛」ではない。けれどもそれに近いものが漱石の時代にはあった、というニュアンスだったように思う。

わたしは個人的に不倫はプライベートなことだから、他人がどうこう言うものではないと思っている。誰かが誰かとダブル不倫だとか、お好きにどうぞ、と思う。大体、不倫された妻の多くが、夫ではなく、不倫相手の女性に激怒するのも解せない。悪いのは夫でしょ?どんなに誘惑されたって断ればいいだけの話じゃないのと思ってしまう。女の敵は女、というのも理解不能だ。自分以外の女を愛した男こそ、敵ではないか。悲しいけれど。

何をもって純愛とするのか、という定義そのものが気になった。
純愛ってなんだろう?悲恋とイコールなんだろうか。

「制約のない恋愛は、小説的には面白くない」という姜さんのお話に激しく同意しながら、不倫も悲恋もひとつの恋愛の形で、「純」でも「不純」でもないのでは、と感じた。だからわたしは、漱石の小説は、ふつうの恋愛小説だと思って読んでいる。小学生だった昔も、今も。

もしかすると、初めて読んだのがあまりに子供だったから、不倫が何たるかもわからず、不可思議な恋愛だと思い込んで、そのまま大人になってしまったのかもしれない。

満席の聴講生たちはほとんど全員が、50代以上の女性で、姜さん個人のファンだった(わたしも含めて)。

最後の質問も「奥様とは純愛なんですか?」と、漱石とは関係のない的外れなもので、姜さんの失笑を買っていたが、わたしは、そうよね、やはり皆さんそこが聞きたかったわよねと、そこは皆さんと同じく聞きたかったので、「企業秘密です」(※奥さんの話はいつか小説に書きたいから)という答えに、ちょっとがっかりした。

結局、「純愛」についても明確な答えはないまま、講座は終了した。

小夜子さん、あなたはどう思います?
純愛って、なに?

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