見出し画像

あのうなぎをもう一度

夜、自宅への帰り道。
ふと足を伸ばして、近くの鰻屋の前まで行ってみたら、青いビニールシートがかかっていた。取り壊しが始まったらしい。店を閉めてもう2年ほど経っただろうか。

初老の夫婦が、細々と営んでいる店だった。
うなぎに目がない夫とふたり、結婚して今の街へ引っ越してから10年以上、少なくとも月に一度は通っていた。

うな重は、特上、松、竹、梅の4種類。
オヤジさんが国産のうなぎにこだわっていたにも関わらず、値段はリーズナブルだった。通い始めたときは『梅』で1800円だったと思う(数年後に国産うなぎの高騰で2300円に)。それでもわたしたちは一番下の『梅』しか頼めなかったけれど、何度か通ううちに、注文するより先に「いつものね」と声をかけられるようになり、最後の数年は互いに何も言わずとも、席に座るだけで『梅』が出てきた。
そしていつだったか、夫のごはんがお重にたっぷりと大盛りに盛られるようになったときは驚いた。わたしがいつもごはんを少し残して、夫に食べてもらっていることに気づいたのだろう。逆にわたしのごはんは少なめになっていた。そうしたさりげなく優しい気遣いをしてくれる店でもあった。

炭火でじっくり焼いたうなぎは、ふかふかしてやわらかく、甘めのタレが絶妙だった。名古屋の両親を連れていったときも「東京にこんなうまい鰻屋があったのか」と唸っていたほどだ。本当においしいうなぎだった。奥さんが毎日漬けていたぬか漬けのお新香も、ゆずの香りがする肝吸いも。

夫としんみりしながら、あの店で撮った写真を探した。Facebookを始めてからは、何度か写真に撮ってアップしていた。遡ったら懐かしいあの『梅』のうな重が何枚か出てきて、そしてまた、余計にしんみりしてしまった。

オヤジさんも奥さんも、よく「わたしたちの代で終わり」と口にしていたことを思い出す。自分たちが開いた店だから、自分たちの代で終わっていいんだ、と。

ある日突然「しばらく休業します」という張り紙が貼り出された。その「しばらく」がどれくらいなのか、前を通るたびに気になっていたが、シャッターの降りた玄関にあったその張り紙も、いつの間にか消えてしまった。閉店の理由は聞かされていない。

こんなことなら、一度くらい『特上』に挑戦すべきだった。お正月には毎年店の名前が入った手拭いをお年賀に頂いていたのに。わたしたちは『梅』しか注文したことがない。
昼だけじゃなく、夜も足を運んで、どじょうの柳川鍋も食べてみたかった。店の前のバケツではいつも、黒だかりのどじょうが元気に泳いでいた。
奥さんのぬか漬けは絶品だったから、ぬか床を少し分けてもらえばよかったな。お茶の葉も近くで買ってると言ってたけど、どこなのか教えてもらえばよかった・・・次から次へと、あの店の風景とともに些細な後悔が生まれてくる。

記憶でしか振り返ることのできない店になってしまった。

あのうなぎを、もう一度食べたい。
できることなら、もう一度。

わたしたちは迷わず、銀座や新宿や浅草のどの名店より美味しかった『梅』を頼むだろう。
いや何も言わずとも、小さな椅子に並んで座り、夫がスポーツ新聞を広げ、わたしがテレビののど自慢をなんとなく眺めていたら、目の前に差し出されるに違いない。

「はい、どうぞ」奥さんのふくよかな声とともに。

そしてわたしたちは、満足して店を出るのだ。

オヤジさんの威勢のいい「ありがとうございましたっ」という笑顔を背にして。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?