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7号車3番A席 【後編】

このまま見つからなかったら、鹿児島から熊本までの料金をもう一度支払わなければならない。

ひどく情けない気持ちで、携帯の画面に残る切符をぼんやりと見つめ、気になっていたLINEを開いた。夫から3件入っていた。「新水前寺の到着時間教えてね」「熊本駅に着いた?」「新水前寺に向かってるよ」

紛失した乗車券は、熊本駅から在来線で数駅先の「新水前寺」まで購入していた。
夫の実家の最寄り駅である。迎えに来てくれることになっていた夫が、返信もせず、新水前寺にも到着しないわたしを心配しているだろうな、と頭の隅でわかってはいたけれど、余裕がなかった。

やっと返信のLINEを書き始めていたら、車内に連絡した先の若い女性係員が「10分から15分ほどかかります」と告げに来た。
座席番号がわかっていても、車内捜索にはそれくらいの時間はかかるだろう。わたしは「すみません、大丈夫です待ちます」と頭を下げ、事情を説明した夫へのLINEには少し時間がかかりそう、と送った。

10分、15分、20分。
改札脇の、薄いガラス窓の向こうにある丸い掛け時計が、ジリジリと進んでいく。

わたしは狭い通路に立ち尽くしたまま、荷物を下に置き、車内からの捜索結果を待っていた。しかし一向に声をかけられない。中で働く駅の係員たちの顔を覗き込んだりするものの、皆忙しく働いており、こちらから声をかけるのも憚られた。頼りにしていたあの若い女性係員もいつの間にか席をはずし、姿が見えなくなってしまっていた。

そもそもわたしの失態が招いた事態である。駅員の仕事を増やしてしまった罪悪感がある。催促などできるはずもない。背中を通りすぎる乗客の、機械に吸い込まれていく切符が恨めしかった。

「まだ車内からの連絡がないんですよ」
30分ほど経ったところで、さすがに可哀想に思ってくれたのか、男性係員が近寄り、窓越しに説明してくれた。「いま博多に着いた頃だと思うので、もう少しかかるかもしれません」

わたしが乗った九州新幹線『さくら562号』は新大阪ゆきで、博多で乗務員がJR九州からJR西日本に入れ替わるのだという。
「総入れ替えになるんで、業務連絡の伝達が済んでからでないとこっちに連絡が来ない可能性が…」
すまなそうに説明する男性係員に、わたしの絶望感と罪悪感はピークに達した。もしかしたら、探したけれど見つからなくて連絡できないでいるのかもしれない。確かにわたしは何も残っていない座席を見たのだから。
「すいませんご迷惑をおかけして、、、もう結構です、お金払ってでます」

そのとき。改札の向こう側でわたしを呼ぶ声がした。振り向くと、夫が手を挙げてこちらを見ているではないか。待ち合わせた新水前寺から熊本駅まで駆けつけて来てくれたのだ。
「なんとかなりませんか?切符の写真があっても通せませんか?」
夫は再度訴えてくれたが、「もういいから」と泣きそうな顔で制するわたしを察して「うん、出よう、お金払おう」と言ってくれた。
そんなわたしたちを不憫に思ったのだろう。男性係員はお金を払うにしても、車内捜索の回答があってからにしたほうがいいと、駅の横の待合室で座って待つよう促した。
「ずっと立ったままだと疲れますから」

待合室は改札を出たところにある。
男性係員はわたしの携帯の番号を聞いて「回答がでたらご連絡します」と、送り出してくれた。

わたしはとりあえずでも改札を出られたことで、随分と気持ちが軽くなった。今まであまり気にしていなかったが、改札は、こちら側の世界とあちら側の世界を隔てる、自由な往来ができるようで実はできない『結界』のようだ。
待合室の椅子に座った途端、からだじゅうの力が抜けたように沈んだ。

数分後。何度となく探したバッグや紙袋を、夫がもう一度調べる、と中身を全部出し始めたとき、あの若い女性係員が現れた。「見つかりましたよ。座席にありました」
「!どこに?どこかに落ちていたんですか?」
よかった、と安心するより先に、いったいどこから切符が出てきたのか、わたしはそれが気になった。しかし女性係員はただ「座席にありました」と繰り返し「よかったですね」と続けた。わたしもそれ以上は聞かず「ありがとうございました、本当に助かりました」と何度も頭を下げ、熊本駅を後にした。

おそらく切符は、座席のどこかに落ちていたのだろう。わたしがちらりと見た、何も残っていないと確認したシートの、死角に。

けれどわたしは、ほんとうは探したけれど切符は見つからなかったのでは、という思いが拭えない。熊本駅の係員の方たちが、わたしたち夫婦に同情してくれたような気がしてならないのだ。

待合室まで足を運び笑顔をくれた若い女性係員と、立ったままでは疲れるからと親身になってくれた男性係員の、優しい眼差しを思った。

季節外れの台風が近づき、外は小雨がぱらついていた。
ここまで来てくれた夫にも感謝しながら、ふたりでタクシーに乗った。

結界を越え、生き返った心地のする雨だった。


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