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⭐️私の3.11 極限状態の中で⭐️

東日本大震災から12年が経ちました。

花は咲く」を聞きながら、今でも涙が溢れます。
私は震災当時、郡山市におりましたので私の体験の1部を書きたいと思います。

当時駆け出しの医師であり、医局の駒として東京から福島に転勤、さらに郡山に出向し郡山市の病院で働いていました。
震災の日、私はある患者さんの手術を執刀する予定でした。
朝、患者様をストレッチャーで手術室にお連れし、手術台に乗せ、麻酔科医が麻酔をかけ、上司と一緒にいざ執刀、メスを握った瞬間に、とてつもない揺れが生じたのです。
私はとっさに患者さんが手術台から落ちないよう体で覆いました。
そして、手術室に大震災が起こったのではないかという情報が流れました。 病院中のエレベーターは停止してしまったので、私は麻酔にかかった患者さんをおんぶして、階段で病室まで運びました。
病室に着くと患者様は少し麻酔が覚めてきて、「手術は終わったのですか」と聞くので、実は地震で手術はできませんでしたよ、と伝えると、麻酔で寝ていてわからなくてよかったとにっこり笑いました。
その時、ふと窓から空を見ると、晴れ空に突然真っ白な雪が舞い、地鳴りがしていました。
病院内は非常電源を使用しており、極力電力消費を避けるため暗く懐中電灯を使う生活になりましたが、院内の揺れで物が散乱していました。

実家に電話をかけましたがつながらず、逆に電波が混線して「●●ちゃんは亡くなったの」などという会話が混入して怖くなりました。
外で何が起こっているのか情報が入ってこない状態がしばらく続いたのです。
地震後数分の間に津波で何万人もの人が亡くなったことも知りませんでした。

危険なので病院から出ないよう指示され病院に住んでいましたが、 病院が崩壊して行き場のなくなった患者さんが一気に私の病院になだれ込んできました。
院内は野戦病院と化し、フロアは患者さんで溢れ、 限られた医療資源で効率的に診療するため、患者さんにトリアージタグをつけてゆきました。
患者さんはいくつもの病院をたらい回しにされ、残念ながら病院到着時にはすでに瞳孔が散大し既に死に至っており、 黒タグ(処置不要、死亡群)をつけざるを得ない方々もいらっしゃいました。
原発の爆風を受けた患者さんもおり、放射能汚染を避けるため黄色い防御服を着ながら診療をしてゆきました。
3日目位が経つと、救援物資の白米のおむすびが届き、久々に食事を食べほっとしたのを思い出します。

震災後1年間、医師として郡山、福島で診療を行うこととなりますが、震災後の人災、過労による神経衰弱状態での診療、絶え間ない余震、原発爆発や放射能への恐怖、、など極限状態の中で、 「人間の力ではどうすることもできません、神様助けてください」 毎日、毎秒心の中で神に向かって叫ぶしかない生活が続きました。
そして大きな恵をいただきました。

日本は地震大国ですし、その他、様々な天災、疫病などの中で古来から困難の中で苦しんできました。
たくさんの神社仏閣を見る時に、そこには沢山の 悩みや悲しみがつまっているのではないか、大きな存在をよりどころにし、生きた庶民の願いがあるのではないかと思います。
そして、天地を畏れ神を敬い、人間の小ささを感じて生活していたのではないかと思います。
豊かになった今、そういった心境を忘れてはならないと思います。

足下の土地を踏み締めながら、日本で命を落としたり、日本を思いながら異郷で亡くなっていった日本人の先祖の命が土地に刻まれているように思います。

当時、病院の副院長先生が疲労困憊した私を気に留めてくださり、渡辺和子さんの講話を勧めてくださいました。
今でも私の心のよりどころになっています。

ご参考にしていただければ幸いです。


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