【少年の君】

ずっと深いところで、きっとわたしは。

【あらすじ】

「君が、俺の明日を変えてくれた」
「君が、私の明日を守ってくれた」

孤独な優等生の少女と、ストリートに生きる不良少年。
出会うはずのなかった二人の邂逅が、過酷な日常に微かな光を灯す。

進学校に通う成績優秀な高校3年生のチェン・ニェン。
全国統一大学入試(=高考)を控え殺伐とする校内で、ひたすら参考書に向かい息を潜め卒業までの日々をやり過ごしていた。そんな中、同級生の女子生徒がクラスメイトのいじめを苦に、校舎から飛び降り自らの命を絶ってしまう。
少女の死体に無遠慮に向けられる生徒たちのスマホのレンズ、その異様な光景に耐えきれなくなったチェン・ニェンは、遺体にそっと自分の上着をかけてやる。
しかし、そのことをきっかけに激しいいじめの矛先はチェン・ニェンへと向かうことに。彼女の学費のためと犯罪スレスレの商売に手を出している母親以外に身寄りはなく、頼る者もないチェン・ニェン。同級生たちの悪意が日増しに激しくなる中、下校途中の彼女は集団暴行を受けている少年を目撃し、とっさの判断で彼シャオベイを窮地から救う。辛く孤独な日々を送る優等生の少女と、ストリートに生きるしかなかった不良少年。二人の孤独な魂は、いつしか互いに引き合ってゆくのだが・・・。



胸が痛い。
と、感じた頃にはもう、私はすっかり涙を流していた。
押し寄せる感情の波が、苦しくて息ができない。
そんな映画を、久しぶりに観た気がする。

湿っぽい、そして温い、夏の夜みたいな映画だった。
じとっと肌を湿らすような、心が沈み込んでいくような。
水分を含んだ映像の中で、私は昔の自分を何度も見つけようと模索する。
それでも、チェン・ニェンに自分を重ねようとするたびに、どうしたって無垢な彼女のまっすぐな目に、私を見つけることはできない。

このnoteには何度も自分の過去を書いているので、読んでくれたことのある方がいるかもしれない。
私は中学生のときにいじめにあっていて、不登校だった。
基本的には家から出られず、どうしても登校する際には、保健室かカウンセリングルームだった。
たまに教室に行けば、クラスメイトからのじとりとした、それこそ、この映画の纏わりつくような目線が痛かった。
だからいじめを題材とした作品を見るたびに、その作品にはかならず共通点があって、共感してしまうのだけれど、
この作品はそれでも、あまりに苦しくて、そしてあまりにも、きっと中学生の頃の私が望んでいた”光”があった。

チェン・ニェンが受けているいじめは、私が受けていたものよりも悲惨な、壮絶な、、、(いじめの内容を比べることはしないけれど)
彼女の苦しみや悲しみが、いつも華奢なその体から溢れ出ているのに、彼女の眼はいつだって尖っている。
ここにいるんだと言いたげな、いじめている人間なんか見ていない、どこかもっと先を見ているその視線が、鼻につく気持ちもわかってしまう。
彼女の目からあふれる涙は、いつだって濃度が高そうに見える。意志の強さや、正義や、優しさや、恨みや、憎しみだとか、いろんなものを混ぜこぜにした、濃度の高さ。


書き出したいことは沢山あるのだけど、とにかく、人との距離感の可視化が綺麗な映画だったと想う。
チェンがシャオベイの家にはじめて泊まったとき、壁のほうを向いていたはずが、「借りがひとつ」と「約束」をしてまたベッドに横になったとき、シャオベイのほうを向いて眠りにつこうとしたのがとても印象的だった。
この人は私を傷つけない、と分かったその温度、距離感、その刹那に変わる空気の色、そんなものがすべて、可視化されていた。とても優しい描き方で。
そしてそのあと、別のシーンで二人は同じベッドで肩を並べて横になる。
それも、二人が過ごしてきた時間がそうさせたのだと、その並んだ二人があまりにも愛おしい。

ほかにも、チェンが暗い部屋で母親と電話するシーンもそうだった。
その姿はいつもの自分そっくりで、母親の声が聴きたくて、でもかっこ悪い自分なんて見せたくなくて、「あんたなら大丈夫」と、根拠のない信頼をくれる人を傷つけまいとする、
でもそれでいて助けを、救いを、ほんの少し求めているその姿が、とても痛々しくて、でも、その気持ちがすごくわかってしまう。

きっとこの映画をみたほとんどの人が、涙腺を崩壊させられたであろうシーン。
ひとつの壁を隔てて顔を見合わせたチェンとシャオベイの、言葉が何一つなくても伝わる、表面張力が弾けた、あの瞬間。
あれも、なんて綺麗な距離感と、そして、焼け付くような感情のぶつかり合いなんだろう、と想った。
心はずっと繋がって、同じ未来を夢見て、同じ光を求めて。そんな二人の溢れ出る感情が、差し込む光の中に溶けていく。
まどろむような光の中で、彼らの涙が零れ落ちるのを、一時だって見逃したくなかった。


それから、劇中のセリフで、好きなものがあった。
「大人になる勉強はしたことがない」というセリフも好きだった(そして大きくうなずいてしまった)のだけど、
「俺には何もないけど、好きな子がいる」というセリフ。
何も持たないシャオベイが、唯一持っているもの。
これだけは持っているんだ、と、唯一言葉にできる、ぐっと固く握りしめた掌の中にある、好きな女の子。
この世であんなにも、優しい告白があるんだろうか、と想えるシーンだった。


チェンとシャオベイは、足りないものを埋めあうことはしていなかったと想う。
お互いに欠落しているものを、お互いで取り戻すのではなくて、お互いが持っているものを、お互いが大切にしていた。至極自然に、優しい形で。
チェンが守りたい世界を、シャオベイは何よりも大切にしていたし、シャオベイが大切にしたい未来を、チェンも受け入れていた。それはまるで息を吸うように、たとえそれで、誰かが傷つくことになっても、シャオベイが望む未来を大切にするのが、チェンにとって当たり前のように。
そこには他人が入る余地なんてなく、ただ、そこには二人だけにわかる、二人だけが知っていればいい未来があって。
そんな二人の未来が、どうかどうか、叶えばいいのにと、私は手を握っていた。


補いあうことを、愛だと想っていた。
足りないものを、埋めることが優しさだと想っていた。
勿論それもそうなんだろう、間違いではないんだろう。
それでも、彼らはそうじゃない。
補い合って、埋めあうんじゃない、いま手にしているものを、そして大切にしたいそれぞれの世界に、眩い光の中に行けるように、一緒に手を取ること。
がむしゃらで、不器用で、常識なんてなくて、格好悪くて、無様で、傷つけて、傷つけられて。
そこに倫理なんて、法律なんて、他人からの共感なんてなくてもいいと想える力強さで、
お互いの握りしめた手を離さない、ただそれだけが、愛なのだと想った。


…なんだか感情の赴くままに書きすぎて、支離滅裂になっている。
(けれど、たぶん、これが書きたかったことで、これ以上はネタバレしてしまう気がする)

陳腐な言葉だけれど、ただ二人が、ただただいま、同じようにいじめに苦しむ人が、明日の光を愛しく想えますように。

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