見出し画像

『春風』

陽のにおいがする。
窓から差し込む光が、埃の粒子をキラキラと、まるで美しいもののように輝かせている。
微睡む頭でその輝きをみながら、傍にある人の気配に、私は安心しきってしまう。

私はこのひとの、男性にしては少し線の細い掌が好きだ。
爪は薄いピンク色で、少し曲がっている人差し指の形も、渇いたにおいのする掌も、どれも愛おしい。

「ユウタ」

と小さく声をかけるけれど、起きる様子はない。寝顔まで愛しいと感じられたら愛だなんて誰かが言っていたけれど、本当にその通りだ。


私はユウタの家に一緒に住んでいる。
二人で暮らすことになった日、緊張していたわたしのことを、ユウタは快く迎えてくれた。
それからの暮らしは炊事洗濯はユウタがしてくれて、わたしはそれをフォローするくらいだけれど、それでもいつもユウタは嬉しそうに笑ってくれる。
ユウタの目は、縁が少しグレーがかった深い黒をしていて、私はその、見透かすような目がいつも少しだけ怖い。
怖いけれど、その目を細めてくしゃっと笑う笑顔が、たまらなく好きだ。

「ん…」

小さくユウタが唸る。眠りが浅いので、きっとじきに目覚めるだろう、そう思いながら、私はそっとユウタの頬にキスを落とす。
ああどうか、どうか私が彼の一番になれますように、と願いを込めて。

【~~~♪】

穏やかな時間を止めるかのように、ユウタのスマートフォンが電子音を鳴らす。着信画面を見ると、私が見たくない名前がそこには映っていた。

「いやだ…」

と小さくつぶやくけれど、それはユウタには届かない。まだ眠たい目をこすりながら、ユウタがスマートフォンに手を伸ばす。
私はその電話に出てほしくないながらも、ここだよ、とユウタにスマートフォンを渡した。

「ひより、ありがとう」

とろんとした目で、ユウタはわたしの名前を呼ぶ。くしゃっと笑うと、目尻にある黒子が、笑い皺の中に埋もれてしまうところが可愛い。そうして笑う顔に、私はもう何も言えない。

「もしもし」
『もしもしユウタ?』

電話越しに聞こえてくる優しい声。その声はユウタの名前を、とても甘ったるく呼ぶ。耳を塞ぎたい衝動に駆られるけれど、私は寝たふりをして、そっぽを向いて、…いや、でも、もしかしたら気づいてくれるかもなんて淡い気持ちも込めて、そっと目を伏せた。
電話が終わったユウタが近づく気配がわかる。私の頭のてっぺんに顔を埋めて、それはまるで小さなキスをしながら、私のことを抱きしめる。

「ひより、出かけるから準備してくるね」

と、どことなく弾む声でユウタが言う。私はわかった、と首を小さく縦に振ることしかできない。


外は、想ったよりも寒かった。
まだ残る、冬のツンとした空気の中に、春のにおいが混じる。もう暖かい地方では桜が咲いているのだろうか。その春のにおいが、ここまで届いているんだろうか。
ユウタはゆっくりと歩く。一歩一歩、ゆっくりと。私はその歩幅に合わせるように、ユウタの少し前を歩く。うしろにユウタの気配を感じながら、その気配が、どこか浮足立っているのを感じながら。

「春のにおいがするね」

と、ユウタがひとりごとのようにつぶやく。そうだね、と、私は小さく唱える。その声はユウタには届かないのに、ユウタはどことなく満足そうだ。
目的地について、ユウタはベンチに座り、私もその隣に座る。どこかで鳥が鳴いていて、風は穏やかで。このままこの時間がとまればいいのに、なんてありきたりな台詞を、何度だって私は考えてしまう。

「ユウタ、お待たせ!」
「ナミ、仕事お疲れ様」
「ありがとう。あ、ひよりもこんにちは」

そんな淡い期待はいとも簡単にやぶられ、私が一番顔を見たくない、でも、きっとユウタは一番会いたい女性が、私とは反対側に座った。
ナミはユウタの幼馴染で、小さい頃から一緒だと、昔からしっかりしているナミに何度も助けられてきたんだと、飽きるほど聞かされていた。
二人は、もう私なんて眼中にないかのように会話をはじめる。話したいことがあってね、僕も実は、なんて会話をする。私はその間に入ることができないから、ただ黙るしかない。…二人の手には、お揃いのシルバーの指輪が輝いている。いまは右手の薬指につけているけれど、それがいつか、左手になる日も近いだろう。



なんで私は、犬なんだろう。
なんで私は、人間として生まれてこれなかったんだろう。
盲導犬だなんて、こんなに一番傍にいても、ユウタの目になっていても、一緒の時間を過ごしても、何の意味もない。
同じ言語を交わすことも、コミュニケーションをとることもできない。
愛しい人の目になれたからって、なんだっていうの。腕いっぱいにその人を抱きしめて、寂しい夜は一緒に眠って、言葉をかけて、あなたがわかる言語で、あなたの名前を呼ぶことも、あなたがどれだけ好きかを伝えることもできないなんて。

「ユウタ」

と、名前を呼ぶ。でも、それはユウタの耳にも、ナミの耳にも届かない。
ユウタが、少しだけわたしを見たような気はするけれど、なんて言ったかなんてわからないんだろう。
瞳の奥から涙が滲む。目頭が熱い。でも私は、それを言葉にすることも、吠えることもできない。
行き場のない、どうしようもない想いが、ただ痛い。

「ひより、眠い?」

ユウタが優しく私に声をかける。
眠たくなんかないよ、と、平気そうな顔をして、わたしは微笑むけれど、その微笑みだって、きっとユウタには正しく届いてはいないんだろう。

「だいすき」

届かないとわかっていても、私はどうしても、その言葉を口にしてしまう。
この声が届かないのは、春の風にかき消されたからだ、なんて、言い訳をして。

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?