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昭和5年の鉄道路線図を読む

今回は昭和5年1月1日発行東京日日新聞付録の最新大日本鐵道地図を紹介します。東京日日新聞は明治5年に創刊された東京で最初の日刊新聞だそうです。明治44年に大阪毎日新聞に買収され、昭和18年に毎日新聞に題号を統一したそうです。戦前の鉄道路線図なので見どころがたくさんあります。

路線図全体
凡例

要塞地帯というのが時代を感じます。

北海道

地図上に緑で書かれている文字はその地域の特産・産業です。

現代と比べると昭和5年の方が鉄道が発達しているように思います。
石北線がまだ全通していませんので、名寄本線が本線と呼ぶべき主要な路線になっていることが読み取れます。
現在宗谷本線となっている音威子府から幌延経由の稚内への経路は、当時は天塩線と呼ばれており、宗谷本線は浜頓別経由の方ですね。
2006年に廃線となったふるさと銀河線の前国鉄池北線はこの当時網走本線と呼ばれていました。
最近廃止された札沼線のほぼ全区間はまだ未開通です。

この当時から夕張から苫小牧まで複線で整備されています。産炭地へ伸びる路線も多く、石炭輸送の繫栄ぶりを感じることができます。
千歳線がまだ私鉄線です。定山渓温泉への路線も健在です。登別温泉へも私鉄電車線が伸びていますね。
石狩当別のあたりに「石油」の文字があります。Googleマップで調べてみると海の近くに厚田油田跡というスポットがあり、今でも原油が沸いているそうです。
室蘭と青森を結ぶ船もあったようですね。

南樺太と北東北

南樺太は戦前は製紙業が盛んでしたが、他にあまり特産の緑文字が書かれていません。ソビエトとの国境近くはまだまだ未開の地という感じです。

北東北の鉄道路線網はあまり変わっていませんね。
現秋田新幹線(田沢湖線)や五能線・花輪線・八戸線は全通していません。
現秋田内陸縦貫鉄道の阿仁合線も建設中ですね。
小坂や陸中花輪付近は銅の産地。秋田の東にも油田がありました。
津軽海峡は国際海峡なので大間は当時要塞地帯でした。大間を支える大湊も要塞地帯になっていますね。

南東北

南東北も主要路線は現在とあまり変わっていません。
三陸方面への鉄道路線が遅れている印象です。
釜石線などは当時仙人峠まで私鉄線が開通していますが、全区間国鉄線による路線敷設が計画されています。「砂鉄」と書いてある釜石は当時から重要な製鉄業の街でした。
現北上線が当時横黒線と呼ばれており、北上は黒澤尻と記載されています。

仙台エリアでは仙石線がまだ私鉄電車線です。
仙山線は愛子から山形まで、米坂線も今泉から先が未開通でした。
仙台鉄道と呼ばれていた軽便鉄道は健在で、仙南交通秋保線も健在です。
昭和12年に廃止された仙南温泉軌道と呼ばれた鉄道も当時は健在です。

福島エリアは福島交通の路線網の充実ぶりがうかがえます。川俣線も健在。
水郡線はおぼ建設中、只見線は計画すらされていません。
破れてしまっておりよくわかりませんが、現会津鉄道は建設中、現野岩鉄道は計画すらありません。

北陸

新潟は当時石油の産地でしたので、新発田の南東や長岡の東で「石油」の文字が見られます。
長岡周辺では戦後廃線となった越後交通の路線網も確認できます。
上越線は未開通ですが、予定線がループ線で描かれています。
上越北線・上越南線と呼ばれていたのですね。

少し群馬の方に目を向けると、草軽電気鉄道が健在、東武鉄道伊香保線、前橋線、高崎線も健在です。碓氷峠の熊野平はこの当時まだ駅のようですね。

長野に入ると小海線はまだ私鉄で上田周辺の路線網が充実しています。
浅間温泉へ伸びる松本電気鉄道も健在です。
JR西日本が検討を始めた大糸線もまだ完成していません。

富山は現富山地方鉄道の路線がまだバラバラといった感じです。
高山本線は富山側では飛越線として大部分が未成線です。

金沢・小松・大聖寺周辺は戦後に多くが廃線となった北陸鉄道の路線網が充実しています。金津が芦原温泉に駅名が改称されたのは1972年だそうです。
端で見えにくいですが、敦賀からは浦塩斯得(ウラジオストク)への国際航路があったようです。

関東

この地図を見ると烏山線・真岡線・水郡線は接続される予定だったことがわかります。佐原から松岸までも未成線ですね。
成田・八街・八日市場を成田鉄道?が結んでいるのを確認できます。
久留里線が久留里から大原まで未成線になっています。これが木原線です。

西に目を向けると八高線が未成線です。線は小川町や寄居を通っていないため、まだ計画段階だったのでしょうか。
青梅線や五日市線はまだ私鉄線ですね。

静岡方面ではこの時はまだ丹那トンネルが開通しておらず、東海道線は御殿場経由です。身延線はまだ私鉄ですね。
飯田線もまだ私鉄線で天竜峡までです。

産業では日立に金銀と石炭、湯本にも石炭の記載があります。地図を見ると東北本線が当時宇都宮までが複線であったのに対し、常磐線は平(いわき)まで複線のため、常磐線が重要路線であったことがうかがえます。

蓮田・岩槻辺りに埼玉高速鉄道が浦和美園から延伸しそうなルートを通る路線があります。これは1924年に開業し1938年に廃止された武州鉄道だそうです。この地図を見て初めてこの鉄道の存在を知りました。
また、春日部が「粕壁」ですね。
大宮から現JR川越線と似たようなルートをたどる路線がありますが、こちらは1941年に廃線になった西武大宮線です。

千葉方面では流鉄の路線は変わらないですが非電化、現在の東武野田線も清水公園という駅までしか開業しておらず非電化ですね。

東武東上線は川越市から北は非電化、現在の西武国分寺線や西武多摩湖線、西武多摩川線も非電化です。

神奈川方面では南武線がまだ私鉄線で分倍河原まで開通しています。
小田急や東急の駅名などは今と違う駅が多いです。
相鉄線の前身の神中鉄道は非電化でこの時はまだ西横浜までです。
今は旅客営業していない相鉄厚木線の厚木までしっかり路線があります。
当時はまだ海老名駅は無いようです。(武蔵小杉も無いですね。)
厚木から茅ケ崎の現JR相模線も当時は相模鉄道という私鉄線で、戦時中に国に強制買収されています。

東海(中部)

御前崎に向けてたくさんの路線が伸びていますね。
浜松周辺は現在残っているのは遠州鉄道(西鹿島線)だけでしょうか。
天竜浜名湖鉄道の天浜線(旧二俣線)も二俣から西はこの当時まだ計画されていませんが、二俣線は艦砲射撃を避けるための東海道線の迂回路線だったので、この後整備され昭和15年に全通しています。

東海地方はあまり詳しくないのでよくわかりませんが、賢島周辺では近鉄線の前身路線が真珠港まで路線が伸びていますね。

名松線はその名の通り名張と松坂を結ぶ意気込みを感じます。
まだ近鉄線大阪線が無く、名張周辺に伊賀線がある程度ですね。

北に目を向けると東海道本線の関が原から北陸本線の木ノ本へ何やら未成線が伸びています。あまり情報がありませんが建設されることはなかったようです。中山道と北国街道の脇往還と沿うように計画されていたようです。

この当時、近鉄はまだ木曾三川を越えられていませんね。
名鉄線も南は神宮前、北は柳橋というところで終わっており、南北接続していないようですね。
瀬戸はやはり陶磁器の記載があります。このころの非水洗式トイレの便器は陶磁器製のため、瀬戸や信楽で作られていたそうです。

近畿(関西)

琵琶湖の西岸に江若鉄道?が健在です。
貴生川からは現信楽高原鉄道(旧信楽線)が加茂を目指していたことがうかがえます。

紀勢本線は大半が開通していないという状況ですね。
新宮から紀伊勝浦は新宮鉄道が開業しています。

加古川から枝分かれのように伸びる私鉄路線網が印象的ですが、現在もJR加古川線、北条鉄道、神戸電鉄など色んな鉄道会社があるようです。三木鉄道とJR鍛冶屋線は廃線になってしまったようです。

姫新線はこの当時まだ未成線。津山線は私鉄線だったようですね。

現在の大阪-和歌山間のJRは阪和線となりますが、当時はまだ南海しか開通していません。国鉄線で和歌山に向かうには王寺・高田・橋本経由だったため、この路線が現在も和歌山線と呼ばれていることに納得できます。
また、淡路島の淡路鉄道はこの時は開通していますね。

三田から伸びる有馬線(国鉄)の文字が目立ちますが、こちらは昭和18年に不要不急線として休止されたそうです。

近鉄(大阪電気軌道・略称大軌)は生駒の山を突っ切って奈良まで到達しています。生駒駅が「大軌生駒」と記載されています。
※他にも大軌八木や大軌田原本と名乗る駅も見受けられます。
新法隆寺と天理を結んだ天理軽便鉄道が平端で分離し、法隆寺線と天理線に分かれている様子も確認できます。法隆寺線は昭和20年に休止(昭和27年廃止)になったようです。
また、王寺から桜井まで突っ切っている非電化の路線が目立ちますが、王寺-西田原本間が現存し、田原本から桜井は昭和19年に休止(昭和33年に廃止)されています。

四国

四国の鉄道は「これから整備します」という感じですね。
それでも瀬戸内海側から琴平を目指す参詣目的の私鉄線が多いのが印象的です。琴電の路線網は出来上がっていますね。
また、松山でも伊予鉄道の路線網はすでに出来上がっています。

八幡浜から大洲・宇和島方面へ至る予讃線のルートは、当時の計画では内陸へ大きく迂回するルートをとっているようですね。現在のルートが開通したのは終戦間際の昭和20年6月だそうです。

今は東洋のマチュピチュと呼ばれている別子銅山はもちろん現役です。
近くに書かれているアンチモニーはアンチモンと呼ばれるレアメタルの一種だそうです。難燃剤や電池、鉛合金などに使用するそうです。

中国地方

現在大赤字路線や廃線となってしまっている中国山地を走るローカル線はこの時代はまだ軒並み未成線ですね。芸備線(広島-三好間)はまだ私鉄線です。
また、小郡(現新山口)から萩へ至る路線が計画されています。この路線の情報は調べても出てきませんが、ご存じでしたらコメントください。

出雲では大社線の存在感がありますね。
山陰本線は山口県の方で未開通区間があります。
呉線は呉-三原間、岩徳線も大半の区間がまだ完成していません。
呉の近くの江田島の文字が目立つのは偶然でしょうか。

福山では鞆の浦へ至る鞆鉄道が健在です。

山口の宇部周辺は鉄道が多く、セメント町という駅名も確認できます。
セメントの街宇部の賑わいを感じることができます。
その宇部の北の方に「無煙炭」の文字があります。良質な石炭が採れたのでしょうか。

九州北部

この時はまだ久大本線が全通しておらず、大分側は大湯線と呼ばれていたようです。
中津付近に枝分かれする私鉄線は廃止時は大分交通でしたが、この時はまだ合併されていなかったと思います。また、今残っていたら大分空港への鉄道アクセスが可能であっただろう路線は大分交通国東線(廃止時)です。この当時はまだ国東鉄道時代でこの後の昭和10年に国東まで全通したようです。

豊肥本線の三重町から臼杵に至る路線も計画されています。調べてみると臼三線として計画されていたそうですが、あまり情報がありませんでした。
アーチ橋の遺構が多くて有名な国鉄宮原線は当時は未成線。戦後の1954年に全通しましたが、1984年に廃線になったそうです。

長崎方面では肥前山口から諫早にかけての長崎本線がまだ開通していません。長崎本線は現大村線の経由となっています。この時未成線だった長崎本線は西九州新幹線の開業により、都市間連絡線としての機能はまもなく終えようとしています。

佐世保から伸びる非電化私鉄線は佐世保軽便鉄道として開業した旧国鉄柚木線の一部です。このあたりも石炭が採れたようで、石炭輸送が目的だったようです。

九州北部は要塞エリアが多く、重要な場所であったことがうかがえます。

当時は筑豊が九州の産業の中心であったことがうかがえます

筑豊炭田を要する九州北部は北海道と同じように石炭輸送路線が毛細血管のように張り巡らされています。複雑な路線網は今も一部は健在ですが、炭鉱へ向かう枝分かれ線は廃線になってしまいました。

折尾・小倉・門司を結ぶ私鉄電車線は西鉄線ですね。知りませんでしたが割と最近まであったようです。

BRT転換予定の日田彦山線は当時はまだ私鉄線です。採銅所駅はありますが、緑色の銅の文字は見当たりませんね。

福岡では旧国鉄筑肥線がまだ北九州鉄道時代の駅名表記になっています。
南に下がると特産に小麦粉の文字があります。小麦粉は北海道というイメージですが、この辺りは現在も小麦の生産が盛んな地域です。
また二日市から甘木へ方面へ延びる非電化路線は朝倉軌道という路線だったそうです。ウィキペディアには無許可でいろいろ行った鉄道として記載されていました。

産業ではやはり現北九州エリアはなんでも作っている最強地帯という感じですね。苅田の辺りにあるワイヤーロープというのも気になります。

疑問なのが若松の洞海が湖のように描かれている点です。古地図を見ると若松と戸畑の間に今は無い中島という島があり、大型船は通れなさそうな狭さですが、外海とは繋がっています。

九州南部

肥薩線の大畑ループがしっかり描かれています。
当時は鹿児島本線の座を譲っていますが、線が心なしか太く見えます。

宮之城線や山野線はこの後昭和12年に全通しますが、昭和62~63年ごろに廃止されています。地図にも金銀と書かれているように、このあたりには一時佐渡を凌ぐ産出量を誇った金山があったそうで、当時は超重要路線であったことがうかがえます。

現在の日豊本線はまだ全通しておらず、現在の吉都線が鹿児島と宮崎の連絡を担っていました。志布志線も現在廃線になっているルートのみ、この時は開業している状況です。
現在の指宿枕崎線もまだ未成線ですが、現在廃線となってしまった南薩鉄道線(鹿児島交通)は枕崎へ向けて路線を伸ばしています。
大隅半島では旧国鉄大隅線の一部が私鉄線として開業しています。

熊本の八代の特産は畳表と記載があります。その隣にあるカーバイトというのは炭化カルシウム(別名カルシウムカーバイト)だそうです。カーバイトはアセチレンランプというランプの燃料だそうで、アセチレンランプは初期の自動車や自転車のヘッドライトや漁業、鉱山用の照明として用いられたそうです。当時の電気照明より長時間強力な光を発するとのことで重宝されたそうです。

沖縄

沖縄は一部陸地の部分まで海の水色が印刷されてしまっています。
北は嘉手納、南は糸満まで鉄道がありました。
沖縄戦により鉄道は破壊され、復旧されることはありませんでした。
モノレールが開業するまで戦後沖縄に鉄道はありませんでした。

台湾

台湾のことは詳しくわかりませんが、戦前日本で一番高い山であった標高3,962mの「新高山」があります。真珠湾攻撃の暗号電文「ニイタカヤマノボレ」のニイタカヤマがこの山になります。(現在は玉山と呼ばれています。)
この当時、台湾へは門司からの航路(鐵道連絡航路)があったようです。

台湾では砂糖の文字が目立ちます。日本統治前よりサトウキビのプランテーション栽培は行われていましたが、日本統治時に製糖産業を近代化させたそうです。

朝鮮・満鉄

この地図が作成された翌年昭和6年に満州事変が勃発、昭和12年に盧溝橋事件から支那事変(日中戦争)に発展していきます。
この地図の少し前に山東半島では紛争が発生しており、この時期は撤兵した直後でしたが、まるで管轄地に含まれているかのように地図に含めて、権益を主張しているように思えます。資源表記も金、銀、銅、鉄、錫、石炭など多数記載されており、日本が中国に進出しようとした理由がわかります。

朝鮮半島はやはり北部に鉱物資源が多いことがこの地図を見ると読み取れます。(このため北朝鮮は存続できている?)
当時はまだウラン鉱脈は無いようですが、北朝鮮では戦後に採掘が進み、核保有国となった一因になっていると考えられます。

日本と朝鮮の連絡は下関と釜山の関釜連絡船となっています。

満鉄の特急あじあ号が大連から哈爾浜まで走らせるのは、この地図の3年後の昭和9年のことです。満州事変の直前ですが、南満州鉄道を運営しているため、まるで領地のように記載しています。この後、傀儡国家である満州国が誕生するのは昭和7年のことです。

戦後、満州エリアは産油地になりますが、このころはまだ油田は見つかっていません。地図には北京の東北東の方角に「石油」の記載があるため、満州でも掘ればあるかもしれないと考えたのか、戦時中には試掘が始まっていたそうです。

まとめ

江戸時代が終わってから60年程度でここまで鉄道路線を発達させ近代化したことにに関心しました。当時、西欧諸国が日本を潰しにかかったのも納得がいきます。歴史にたらればはありませんが、もしこうなっていたらどうなっていただろうかと考えることは決して無駄なことではありません。
乗換案内やカーナビはとても便利ですが、地図を見て目的地までの様々なルートを検証して自分で決めること、行程の全貌を把握することはとても大事なことだと思います。
2020年以降大変難しい世の中になりましたが、溢れる情報を読み解き考え精査する力をつけ、自分が思う道を進んでいければと思います。

読んでいただきありがとうございました。

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