「わかりやすさ」に逃げないこと
どうも!なばすです!
最近、梅雨のように大雨が続いていますね。
今、わたしは九州にいるのですが、これまで離れたところから聞いていた災害ニュースを、実際に自分が現場で聞くとやはり恐ろしさを感じます。
最新の災害情報、道路状況を逐一確認しています。
「当事者意識」って、きっとこういうことなのだろう、とそんな思いです。
すべてのことに対して当事者でいるのは、なかなか難しいことだけど、当事者であろう、と前のめりでいることは大切ですね。
矛盾は悪か
さて、話は変わりますが、「矛盾」についてみなさんはどんなイメージを持ってますか?
「行きたいけど、行きたくない」
「頑張りたいけど、頑張りたくない」
「寝たいけど、寝たくない」
・・・
こういった言葉を聞いたとき、どんな感覚になりますか?
「つじつまが合ってない」
「矛盾している」
「どっちかわからない」
まあ当たり前といえば当たり前ですが、「どっちやねん!」って言いたくなりますよね。
まるで、駄々をこねる子どもみたいで。。
でも、自分自身もこういった矛盾した気持ちになることはあります。
それで、ちょっとことわざについて考えてみました。
基本的に、ことわざには先人の知恵や教訓が反映されています。
蒔かぬ種は生えぬ
果報は寝て待て
嘘も方便
嘘つきは泥棒の始まり
まあ、ことわざは違う時期に違う人によって、生み出されたものだと思うので、「行きたいけど、行きたくない」的なのとはちょっと違うのですが、、
日常の中にも、「AかBか」とか「AならばB」では説明できないことって結構あるなと。
というか、それで説明できないことの方が多いのではないかと思うのです。
「わからないまま」把握する能力
論理的で矛盾のない説明。
これが一番わかり易いですし、学校で徹底的に鍛えられてきたのはこういう能力だと思います。
でも、説明が難しいときに、無理やり矛盾のない型にはめ込もうとすると、歪んだ理解になってしまうこともあるのかなーと。
もちろん、説明する側は、難しいからといって説明を怠るのは良くないと思います。
ただ、やはりときには「Aもあるし、Bもある」みたいな、一見矛盾したことは起こりうるのかなと思います。
例えば、貧困を何とかしたいという思いから、ボランティアをしたとします。
最初は、感謝されて、やりがいもあって充実しているかも知れませんが、次第に、ボランティアを続けているだけでは貧困を解決するのは難しい、と気づくことになります。
そこで、現地の人が持続的に収入を得られるように、ビジネスという仕組みに落とし込まないといけない、そう感じたとしましょう。
いわゆる、ソーシャル・ビジネスです。
そして、A村で生産されているカカオを公正な価格で取引して、カカオ農家さんの収入を安定させようとしました。
すると、今度は隣のB村のカカオの取引量が落ち込んで、B村の貧困に拍車がかかってしまいました。。
こんな事例があったとして、
・じゃあ、ボランティアは無意味なのか?
・A村のカカオ取引を進めないほうが良かったのか?
ということを考えてみたとき、わたしは、
ソーシャル・ビジネスが全てではないし、ボランティアにも意味があると思います。
A村のカカオの取引を進めたことも素晴らしいことだと思います。
というか、本音としては、どちらにも意味がある、と信じたいという感じです。
ただ、それぞれ抱えている課題はあるし、次にそこにどうアプローチしていくか、策を練らないといけないのも事実だと思ってます。
今回の例だと、
どうすれば貧困を解決できるのか?
という問いに対する答えは、「AかBか」的なものではないし、「AならばB」というロジックでうまくいく!みたいなものでもないのかなと。
スッキリとロジックに落とし込めないとき、
「まあ、Aもあるし、Bもあるよね。」
的な、「わからないまま」把握する、というアプローチは結構大切なんじゃないかと思います。
まずやっみて、体感する。
そこで見えたものをもとに、次のアクションを選択する。
そうやって積み重ねていくうちに、「わからないもの」の輪郭が少しずつ見えてくるのかなと思います。
つづく。